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うつ病だったかもしれない話

今となってはもうわからない。
自分は医者ではなかったし、家族も友人もそうではなかった。
誰も病の診断など出来はしなかった。

確実なのは当時の自分はおかしかった。
いやそれも自分にとっては確実ですらない。
その頃の記憶があまりないからだ。

だが、周囲の話によると、どうも自分はおかしかったに違いない。

当時の自分は大学生であったが、次第に学校にも通えなくなっていた。
最終的には行かなくなり、家から出られなくなった。
朝は起きれず、夜に活動するようになった。
電話に怯えるようになった。
しきりに外に出ろという親には「隕石が降ってきて死ぬかもしれない」などという妄言めいた言い訳を吐いていた。

気分の良い日もあった。
そんな日は歌を歌うこともあった。
弟は迷惑していた。

弟は2人いるのだが、このことはまた別の機会に書くとする。

うつ病だったかもしれない期間は結構長く、7年ほどにわたる。
その間はずっと引きこもりをしていた。
7年間も何をしていたのだろう。
いまいち思い出せない。

ネットゲームとそれを題材としたブログやウェブサイトの運営をしていたくらいは覚えている。
その頃の経験のおかげで、現在はエンジニアとして飯を食べているのだから、人生何が役に立つかわからないものだ。

たまには友人とも遊んだ。
遊んだといってもおそらく心配してくれて、遊びに誘ってくれていたのだろう。
行けないことも多々あったが、自分なりになんとかしたくて、外に出ていた。

友と会うのは非常に恥ずかしかった。
みんな大学に行ったり、就職したり、自分の道を歩いていて、それに比べて暗闇に閉じこもっている自分がなんとも惨めに感じたのだ。

外に出ることができないので、髪の毛も大抵のびっぱなしだった。
限界が来ると親に切ってもらっていた。

服も高校生の時に買ったものをずっと着ていた。
家の中ではずっとパジャマだった。

ずっと他人と喋っていなかったので、言葉がどもるようになってきていた。

そんな鬱ヒキニートが、現在社会復帰することになる。
祖母が電撃入院、そして危篤になり、東日本大震災が発生し、祖母が亡くなり、遺産相続争い、と立て続けにライフイベントが発生した。
平常ではいられなくなったのが、刺激として良かったのかもしれない。

祖母は旭川に住んでいた。
自分は当時札幌に住んでいて、入院中のお見舞いや死亡後の手続きや遺産相続等で月に1,2回往復していた。

旭川へは、主に父と母と自分の3人で車を使って移動した。
行きは自分が運転し、帰りは父が運転した。
札幌-旭川間は130キロほどの距離があり、大体3-4時間かかる。
冬場は吹雪で視界がなくなり、何度か死にかけた。

自分は免許を持っていた。
というよりこのうつ病かもしれない状態の中で、なんとか取得した。
よく取れたものだなと、今でも思う。

その後、父から東京の仕事を紹介され、そこに就職することになる。
当時28歳。
おっさん臭と抜け毛が気になりだす年頃になっていた。

高校生の時に買った服を着て、髪は1000円カット。
住居は都内の月4万のオンボロアパート。
土日祝日もなく終電まで働いた。

自分には後がないと思って、しがみついた。
酷い状況だったが、特に病気をすることもなく働き続けることができた。
頑丈な体に産み育ててくれた両親に感謝しかない。

そして何度かの転職を経て、現在は独立して社長となった。
現在37歳。
思考力と肉体の老化が気になり出した。

人生何があるかわからない。
学生の頃は優等生で成績も悪くなかったが、大学を卒業もできず、7年間も引きこもることになった。
そしてまた、自分の足で立てるようになっていた。

当時自分はうつ病だったかもしれない。
違うかもしれない。
とりあえず今、生きている。

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