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撮り鉄の中のパラダイムシフト

こんにちは。久々のお気持ち表明でも致しましょう。


今回のテーマ

今回はこちらのツイートポストを論題にします。

この手の議論はたまーに我々の間で持ち上がってはひとところに界隈で騒がれて、毎度似たような結論に収束していきます。

これは現代の撮り鉄に見られる特徴的な現象の一つとして見ておりまして、誰が言い出したか忘れましたが「"記録"から"描写"へのパラダイムシフト」と呼んでいます。
言い換えれば、「"何を"撮るか(what)」から「"どう"撮るか(how)」へと変遷した、ということです。もっと言えば、単に「どう撮るか」ではなく、「その被写体を"どう撮るか"」にフォーカスした撮り鉄が増えているのではないかと思うのです。そして私自身も、撮影は単なる記録であってはならないというポリシーを持って臨んでいます。

なぜ、このような現象が起きたでしょうか?撮影という行為の敷居は下がって撮り鉄人口が爆発的に増えている中で、所謂「良い写真」の敷居は上がっていて、やりにくい趣味だと感じた方もいらっしゃると思います。或いは今までやって来た事が最近になって評価の手法が変わって来たことに違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。


記録としての鉄道写真

まずは鉄道写真の記録的側面をより深く考察していきましょう。「何を」撮るか、の方です。これは簡単で、ただその車両・列車を撮る行為です。鉄道写真の基本です。編成写真・形式写真・面縦写真・地下鉄構図など、車両を主体とした構図で被写体を迎え撃つ行為全般に当てはまります。これらはその時代、その時期、その地域、その路線を、その車両、その列車が走った事の証明であり、それを自分が目撃し、撮影した事の証明になります。時代の移り変わりと共に、鉄道も絶えず変化していきます。その時・その地域・その路線ならではの車両や列車が必ず存在し、それらを写真に収めて後世に残すのが昔から変わらず受け継がれてきた我々の使命でした。鉄道写真は被写体を合理的に記録するために発展してきたと言っても過言ではありません。こんな書き方をすると大袈裟ですが、記録とは元来そういうものです。

また、かつてのカメラは今ほど高性能なものではありませんでした。それこそ鉄道写真が一般的になったのはSLブームやブルトレブームなどが起きた時代です。ピントは手動で調節するし、高速連写などできず、細かい調整は効かず、撮れた写真は現像するまでわからず、今や当たり前の夜間の撮影も不可能で、フィルムに記録するため(画像を後から削除できるデジタルと違って不可逆な記録)無駄撃ちや試し撮りは実質不可能でした。数年前にショバでベテランの鉄から聴いた話では、カメラを買ってレンズを広角から望遠まで揃えれば何ヶ月分かの給料が吹っ飛んだそうなので、撮影機材へのアプローチ自体がそもそも難しいものでした。
そんな環境では、被写体を見切ったりブラしたりせずに列車を普通に写すという行為だけでも充分にハードルが高く、記録写真を生み出すだけでも一苦労だったことでしょう。

記録写真としての側面をもう少し掘り下げたい方は私の知り合いの鉄による関連記事をご覧ください(参考程度ですが)。


描写としての鉄道写真

ここで言う描写とは、単純な「記録」とは対照的なものとして、何らかの芸術的要素を盛り込んだ表現全般の事です。「描く」という字を含んでいるあたりで察しがつくとは思いますが、単に記録するよりも上の次元に位置する行為です。例えば「かく」は「描く」とも「書く」とも表記できますが、ただ書き起こす(write)と表現する(drarw/paint)では意味合いが異なりますよね。ここでは芸術論的な話は特にしない(そもそもそこまでの教養がない)ので軽く触れる程度にしますが、描写の鉄道写真は鉄道を被写体にしてより高次元な撮影行為をするという事です。それこそ流し撮り、フレームアウト、俯瞰撮影、スナップ写真など列車を風景の一部にしたり車両の特定の部分だけを切り取って叙情的な写真を撮る事です。冒頭のtweetpostから言葉を借りるなら「情緒に訴える写真」ですね。
また、編成写真や面縦写真も同様です。以前の記事でも軽く触れましたが、現在の編成写真の成功条件は非常に厳しくなっています。晴天下の順光線である事、適切な圧縮とポジショニングで正面と側面の比率が美しくまとまる事、車両の前に目立つ障害物がなく背景もスッキリしている事などなど。更に前面やパンタグラフを架線柱の間隔にうまく落とし込み、全ての条件が完璧に整う一瞬間を狙ってシャッターを切らなければなりません。そうして仕上がるのはその車両その列車の存在だけにフォーカスし、被写体の純粋なカッコよさを全面に押し出す洗練された写真であり、黄金比や様式美を追求した一種の芸術的表現ですらあると感じます。編成写真家の間では「シチサンでバチバチに」という標語が唱えられていますが、これは正面と側面の比率がおおよそ7:3の時に写真として最も美しく映る事が由来です。普通に撮れば記録の手段でしかない撮り方でも、細かくこだわる事で「描写」という高次の表現になり得るのです。

さらに、珍しい列車が走る時は「その路線らしさ」や「その車両らしさ」を追求して撮影する人もいますが、これも描写の鉄道写真です。
その地域・その季節・その時代だからこそ見られる風景があり、その中に列車を配置してシャッターを切れば叙情的な表現で一期一会の瞬間を収める事が出来ます。特定の被写体にフォーカスし起点から終点まで追いかけっこしながら様々な角度で撮影すると、その列車をめぐる一つのドキュメンタリーが完成します。いずれも記録としての性格を持ちながら、芸術的な要素を多分に含みバリエーション豊かな写真を生み出しています。
また敢えて「記録」の側面を極限まで弱める事で、一つの表現を極める事も出来ます。例えば国鉄時代を彷彿とさせる列車が走る時に、現代的な要素を画角から排除して構図を作ればファインダー越しに当時を偲ぶ事が出来、鉄道趣味の本質であるノスタルジーを表現できるのです。

そして特定の被写体を重点的に撮影する「○○真剣部」と呼ばれる概念は、現代の鉄道写真の最前線にあると考えています。彼等はある被写体(車両形式や編成や列車)をあらゆる角度から撮影し、撮影者それぞれの視点で被写体を見つめます。その被写体をどう撮るかを常に考え、被写体が輝く瞬間を追い求めて沿線を駆けずり回るのです。

総じて描写の鉄道写真を撮る人々は、一般的な編成写真を撮れば単なる記録に終始して有象無象の中に埋もれてしまうものを、描写に重点を置いて撮影する事で、自分の写真に何らかの付加価値を見出そうとしているのかもしれません。

なぜこのような変化が起きたのか(仮説)

いよいよこの話の核に入って行きましょう。上記でも少し触れましたが、このパラダイムシフトの最大の要因は何と言っても写真趣味の大衆化でしょう。
デジタルカメラが登場し、カメラ付き携帯電話が登場し、写真というコンテンツは一気に身近なものになりました。技術革新によって撮影機材はより高性能に、より低価格になり、フィルム時代とは比べ物にならないほど手軽に撮影できる時代。敷居が下がった事で趣味人口は爆発的に増加し、鉄道写真も例外ではありませんでした。
撮影という行為のハードルが下がると、最低限の要素で構成される記録写真も簡単になり、達成感が薄れた人もいたかもしれません。また、電子データとして記録されるデジタル写真は編集・上書き・取り消しが可能なため試行錯誤をしやすくなった筈です。そこでよりハイレベルな撮影を求めて厳しい条件・高難易度の撮影への進出が加速したのでしょう。

またインターネットの普及により、撮影者は自身の作品をホームページに掲載するようになると他人の写真を気軽に閲覧できるようになりました。SNSが登場すると常に誰かの写真が目に入る日常が訪れます。カメラを持ちさえすれば同じ土俵に立ててしまうため、どうしても他人との比較、相対評価がなされ、自分のアイデンティティを守るためにを他と差別化する流れになります。他の皆とは違う写真を求めて表現の幅を広げたり、写真の質にこだわっていく人もいたかもしれません。誰もが撮っている(撮れる)ような写真、記録的側面しか持たない写真というのが、低い価値しか持たないようになってしまったのではないでしょうか。

そして、2010年代に入ると被写体不足という要因も加わり、パラダイムシフトを加速させたと思います。長距離特急が消え、ブルートレインが消え、国鉄型車両が消え、ジョイフルトレインが消え、地方ローカル線が消え、かつての撮り鉄が熱を上げた魅力的な車両は次から次へと引退してしまいました。数を減らす被写体に反比例するように撮り鉄の行動は過激化し、彼等の標的となるイベント列車も年々規模が縮小、それでも上記の理由で撮り鉄人口は増える一方、需要と供給が逆転してしまいました。
こうなると一つの被写体に撮影者が過集中するようになります。昔は見向きもされなかった列車でも人気が集まり、或いは元々人気のあった列車にはより多くの視線が集まり、膨大な数の撮り鉄が同じ被写体を撮る時代が来ています。この現象が先述の相対評価や差別化を助長し、写真の価値基準が先鋭化していったと考えられます。

今の時代において、単なる記録としての鉄道写真に付与される価値が低く見られるのは仕方ない事です。誰もが同じ被写体を撮り、同じような写真を金太郎飴のように生み出していると、どうしても他と比較されてしまうからです。無数の写真が次元を超えて飛び交う中で自分のアイデンティティを確立するには、記録の次元を包摂し何らかの表現を含んだ「描写の鉄道写真」を撮る事が求められてしまうのでしょう。ただ、それが決して悪いばかりではなく、より高度な表現によって質の高い写真を生み出す契機にもなるし、撮影後の達成感や満足感をもたらし、充実した創作活動へと導いてくれてもいます。今の撮り鉄には私より若いのに写真の上手い方が当たり前のようにいて自分の未熟さを感じるばかりなんだから、鉄道写真の未来は明るいよなぁ(老害並感)。

記録写真の価値

決して今の時代の記録写真に価値がないわけではありません。記録写真の価値は100年前だろうが100年後だろうが消える事はないでしょう。なぜなら今走っている車両は何年も後の世代にとって貴重な「歴史の一部」になるからです。記録を止めてはいけません。私自身も描写の鉄道写真を撮りながら、貴重な記録の一端を担う気持ちを忘れずにいようと思います。
裏を返せば、ある程度の年月を経る事で初めて価値が生まれるため、いいね欲しさに即座にアップロードしても効果は低いのです。むしろ撮影地を大衆化させてしまえば損になりますし。ああこれって1年前に投稿したアレじゃないですか。

承認欲求を持つ事は悪い事ではないと思います。行き過ぎると悪い結果をもたらしますが、適度に持っていればより良い写真へのモチベーションにもなりますし。もし自分の写真に即時的な価値を持たせたいのであれば、描写(どう撮るか)の路線を突き進んでいきましょう。


本題

noteという場で何度かお気持ち表明を書き連ね、一部の記事は多くの方に読んでいただき内容を支持してくださるので、始めて良かったなぁと感じました。何人かの方から身に余るような高評価をいただく事もありましたし、私ごときの人間でも皆様の心に響くものをお届け出来ている事が嬉しく思います。
しかしこれはあくまで私個人の主観と俗説と伝聞だけで構成されたお気持ち表明でしかない以上、無価値です。価値を持たせるには、客観的事実に即した根拠ある主張でなければならないのです。

迷惑撮り鉄だのなんだのと騒がれる昨今、我々は確実に生きづらくなっています。正直撮り鉄なんてものは周りからどう思われ何と言われようが気にせず続けるぐらいの胆力でやるべきですが、そうやって続けたところでいずれは袋小路に立たされる未来が待ち受けているでしょう。故にこの趣味は一度滅んで再構築されなければならない、という言説もあります。的を射ていますが、我々には本当にその結末しか残されていないのでしょうか?
良くも悪くも撮り鉄という言葉に世間が敏感な今、それに関する何らかの働きかけが大きな波紋を生むのは確かです。鉄道会社、沿線自治体、報道機関、国家権力(警察)は、その中で大きな力を有しています。彼等が撮り鉄を意識した働きかけを行う機会は増えており、様々なアプローチで解決への糸口を探っているように見えます。
しかし実際どうでしょうか。撮り鉄の実態はブラックボックス同然で、世間一般はともかく専門家もずれた認識をしているためあまり意味がないように思います。

だから今こそ、内側の視点から撮り鉄問題を見つめる事は重要だと考えています。撮り鉄問題の本質を探る事が出来れば、また違った見方がなされるでしょう。
別に今更我々の市民権を奪還しようとか世の中から良く思われようとか何らかの特別扱いを受けようとかは考えていません。そんなの絶対に無理だし無駄です。イメージアップを望む方は諦めてください。
故に私に必要なのは、このお気持ち表明に根拠のある主張という価値を持たせる事。今までの記述にある程度の信頼性を付与出来れば、一つの議論として社会に投げかける事も出来ます。

という事で、論文を書きました。

2023年11月26日に本記事を公開し、当初ここで調査へのご協力をお願いしたところ、535人がアンケートに回答して下さり、回答者の一部+本記事を読んでご連絡くださった方あわせて13名にインタビューを実施しました。本当にありがとうございました!
安心してください、界隈の暗部に深く突っ込んだ暴露本ではありませんし、特定個人を中傷しないように配慮してあります。これまでnoteに垂れ流して来た内容の延長プラスαみたいな感じです。アンケート回答者がそもそもこの記事を見たかXアカウントのフォロワーという限定的な層にしか届いていないので、得られたデータには偏りがありますし、インタビューの内容を全て拾えたわけでもないため、正直言ってまともな議論が出来ていません。まとまった文章にはなりましたが、論文と名乗って良いものかどうかも怪しいです。また現在我々の中にある価値観を一変させる結論は出ていませんが、それでも今まで俗説に過ぎないものが根拠を持った言説になるという価値を持たせる結果にはなったかと思います。この研究(笑)をきっかけに、学問的な立場から撮り鉄を見る機会が増えるとしたら、それもまた良い傾向になる気がします。

ご笑覧ください。

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