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“うつ病と共に生きる”とは?

<「寛解」するということについて>

  「うつ病」という病気においては、症状が現れなくなった状態を「完治」ではなく「寛解」と呼ぶ。つまり、「恐らくもう二度とうつ病にはならない人生」ではなく、「うつ病の症状が出ていない状態をキープしていく人生」ということである。そして、よく、うつ病が寛解した人は、「これからも、うつと一緒に生きる」「この先も、うつを受け入れて生きる」等と言う。これらのセリフをうつの重症期の人が見ると、「自分は一生どん底、最底辺の人生を続けるのか」という解釈になってしまう。が、しかし、そういうことではない。

<「重症期」と「寛解期」で見ている世界は違う>

    そもそも、うつが寛解した人と重症期の人では、見ている景色が全く違う。言うなれば、寛解した人は、既に深い谷間から這い上がり、空からの光や地上のさっぱりとした空気を感じられるようになった人である。それに対して、重症期の人は、太陽光の届かない深い谷底で、長い間ぐったりと倒れ伏している状態である。
 だから、寛解した人が話す、「うつと一緒に生きていく」というのは、「山の上までは登れないが、そこそこの太陽光を浴びて、谷の周辺でずっと生きていければOK」という意味なのである。ここで、重症期の人は、何だか「今、自分がいる光の届かぬ深い谷底で一生暮らす」という決心を促されているように感じ、たった今とこれからの人生に、何度でも絶望してしまうのである。
 だが、一生、暗い谷底で生きるべき人なんて、どこにもいない。そんな、健康な人なら当たり前に持っている、「普遍的な希望」さえ、まるで見えなくなってしまっているのが、うつ病の「最も危険で基本的な」症状なのである。だから、この絶望から逃れるために、自死を選ぶ人がいるのも、何ら不思議ではない。

<「どん底期の延命方法」>

    しかし、そういったこと(自死や自死未遂)をギリギリでもいいから回避するために、「どん底期(重症期の体感的な表現)」の人は、とにかく体力と気力を回復させる必要がある。山の中で遭難した時と同じ要領で体力を温存する。これは、それほどの非常事態なのだから。

 ①まず、暗くて危ない「谷底」にいる時は、焦ってむやみに行動しないこと。②何かしらを食べて、エネルギーをコツコツと補充すること。③時間が許す限り、一日何時間でも眠って少しだけでも回復すること。(③に関しては、実際に雪山で遭難したときは「寝たら死ぬぞー!」と言うが、この文章においては生死に関わるような寒さ、暑さのところで寝ていないことが前提である)
    そして、医者やカウンセラーといった「救助のプロフェッショナル」と共に、少しずつ、谷底からの脱出を図るのだ。

<精神科の薬という「人生の補助具」>

 この「うつ病治療」という途方もない肉体労働に立ち向かう時、「どん底期」の人の身体補助具や栄養剤の役割をするのが、「精神科で処方された薬」である。これはモノによって得意分野や使い勝手やがかなり違うので、自分の身体にフィットする補助具(精神薬)を、実際に色々試しながら「谷底」の崖を登っていく必要がある。
    どん底期」の人にとっては、肉体的にも精神的にも、かなりつらい試行錯誤となる。だが今後楽に「谷」を登って行くためには、かなり時間がかかったとしても、きちんとベストな補助具を見つけておいた方がいい。


<色々な助けを利用しつつ、「崖を登る」>

    良い補助具が見つかれば、それからは大分楽になる。そしてプロ(医者や資格を持ったカウンセラー)のアドバイスを受けつつ、少しずつ少しずつ、「谷底」から這い上がっていくことになる。
うつ病になるような人はその道中で、一生懸命になるあまりに、眼前に広がる、まるで自分を拒絶しているようなゴツゴツとした崖の表面ばかりが見えてしまう。ああ、こんな景色を一生見て生きるのか、とも考えたりするが、この世には、永遠に続くような状況なんて無い。お金の価値も変わるし、服の流行も変わる。そんなニュートラルで一般的な考え方を、自分がずっと見失っていたことに気づく時、もう既に、自分の周りに吹く「風」が変わっていることに気づく。慣れ親しんだ暗い谷底の、湿った重たい風ではなく、光を含んだ軽い風が、柔らかく自分に当たっているのだ。その乾いた一陣の風を、ふと感じた時、その人はもう、「谷底」から脱出している。
    落ち着いて周囲と自分を見てみると、随分と長く崖を登って来られたことに気づく。それは、最適な補助具(精神薬)を見つけて、きちんと使い続けていたからであるし、その人自身が少しずつ、無理をしないよう休み休みでも「崖を登り続けていた」からでもある。そして、医者やカウンセラーによく相談し、きちんとアドバイスを貰えていたことも大きな理由の一つである。
   「遭難」した時に、本当に必要なのは、プロのアドバイスと、自分を延命させるための腰を据えた思考と行動なのである。

<溺れている人が掴むワラに仕掛けられた「釣り針」>

    闘病中はつらい時期ほど、パッと今の場所から脱出できる便利道具や、都合の良い魔法(自死もこれの一種)を望んでしまうが、それは何ら可笑しいことではない。しかし、そういった弱り切った人を狙って、聞こえの良い情報をエサにして、鋭くひん曲がった釣り針を仕掛けている人間がいることも、確かだ。
 正式な学術論文もないうわさをチラつかせている怪しい人間より、ちゃんと、うつ病や他の精神疾患について沢山勉強し、研究してきた医者の方が、聞くに値することは一目瞭然だ。訳の分からない人間の売るサプリより、プロである医者が処方する薬の方が確実に安全だ。それに医者に言えば、自分にその薬が合わなければ、同じくらいの値段で別の薬にいつでも変えてもらえる。余ったサプリを無理に消費することもない。

<うつ病と共に生きる>

 そして最終的に、「寛解した人」と同じように、「崖」の途中で休み休み過ごして、元気な時にたまに「崖を登る」という生活が日常になる。ここまで辿り着けば、きっとその人も、こう言えるだろう「ずっと、うつ病と共に生きてきました。これからも少しずつ、この谷を登って行こうと思います。でも、もしこの先、谷を登り切ったとしても、無理に動くことはもうしません。そんなことをすれば足を滑らせて、落ちてしまいますから。できればもう二度と、この谷底には戻りたくありませんので」、と。
 いつ何どき、また「谷」に落ちるかは分からない。もしかしたら明日には足を滑らせるかもしれないが、今のところは大丈夫。これが、「寛解」という状態である。「うつと共に生き」、「うつを受け入れて生きる」ことである。
 それを一日、また一日と続けていく時、だんだんと太陽と他人の放つ光を全身で浴びられるようになる。そして、爽やかな風が、顔に当たってはすり抜けていくだけの時間が、何となく、心地良く思えるようになっているはずである。

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