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グレート・インディアン・キッチンを見ました

 先日、話題の映画、「グレート・インディアン・キッチン」を見て大変興味深かったので、個人的な感想を思いついた順に書きます。ネタバレが多いのでご覧になっていない方は注意してください。

「名前の無い人々の物語」


 この映画の特徴は、ほとんどの登場人物に名前が無いことです。名前が無いことで、誰かの個人的な物語で終わらず、私達が個々に思い描く「そう言えばこんなシーン体験したことある」という思い出に緩やかにフィットしてくる気がします。
また、名も無き女性たちの、名も無き苦しみが、名前が無いまま描かれているので、この生活を続けていっても一体誰がこの苦しみに気付いてくれるのか、という閉塞感がありありと伝わってきます。劇中では先祖代々の家族写真を順番に映しだすシーンがあるのですが、酷く不格好に捻じ曲げられたままの女性たちの生活の苦しみが、どんどん積み重ねられた結果、代々の歴史を作っていることを目の当たりにした気がして、恐ろしいシーンだと思いました。

「お見合いの夫婦」


 まず冒頭、お見合い兼両家の顔合わせでしょうか、若い男女が一組、テーブルについていて周りには騒がしい親族が沢山います。親族たちが(少し面白がりながら)気を利かせて、テーブルに二人を残して様子を見ます。「初めて会ったのに何を話したらいいか……」ともじもじする男性に対して、「私も」と控えめに女性が答えます。この女性がこの映画の主人公です。
 この場面では、この男性がシャイで、あまり女性慣れしていなさそうな様子が見て取れます。
 少し気になったのは、主人公の女性の飲み物が見当たらないことです。男性(のちの夫)は自分のマグカップで何か(お気に入りのミルクティーでしょうか)を飲んでいるのに、女性のカップは映っていません。仮にもパーティの主役なのに何故?と思いました。

 この後、二人は無事に結婚式を挙げ、晴れて夫婦になります。結婚式の中で、給仕をしているのは全て親族の女性で、男性陣と子供たちはのんびりお茶やジュースを飲んでいます。
 せっかくだから甘い物でも、などと親族の女性に勧められ、新郎新婦は白い飲み物(?)をスプーンで口に運ばれ、一口、二口と飲み込みます。特別な飲み物なのでしょうか?
 とてもきらびやかで美しい結婚式ですが、私が気になったのは新郎新婦の内、新婦だけが水で足を洗われることです。どういった意味合いがあるのでしょうか?

「夫の家に嫁ぐ」


 主人公の夫の家での生活が始まります。主人公、夫、姑、舅の四人が広い家に住んでいます。最初の食事は、姑さんが給仕をして、男性陣とお客さんである主人公は一緒に食べます。「お義母さんは?」と主人公が尋ねると「私は男性陣とお客のあとに食べる」と言われます。まず出来立ての料理を男性たちが食べ、そのあとに男性陣の食べ散らかした食べかす(テーブルクロスに直接食べかすを乗せています!)や汚い皿を片づけてから、女性陣が食べ始められるのです。次の日から主人公は「私はお義母さんと食べる」と言って「この家の女性陣」の仲間入りをするのです。

「夫と舅」


 朝、主人公と姑が忙しく料理を作っている間、夫は優雅にヨガに勤しみ、舅はのんびり新聞を読んでいます。このはっきりとした対比が見えない壁を表しているのだと思いました。
 その合間を縫って、姑は極めて自然に甲斐甲斐しく舅の世話をします。歯磨きペーストをつけた歯ブラシを舅の元に早足で持って行き、「でかける」と舅が一言言えば靴を揃えて持って行きます。もちろん、夫と舅の汚い朝食の後始末もします。
 私は「はあ?」と思いましたが、日本でもまだこういう光景があるんだろうな、と容易に想像できてうんざりしました。男性陣の様子を見て、まるで、「髭を生やしてテラテラと脂ののった、性欲のある大きな赤ん坊」のようだと思いました。

 その内、姑は出産した娘(夫の妹?記憶が曖昧です)の世話をするために家を空けます。主人公は男性陣の注文(という名のいちゃもん)を聞きながら、必死に毎日料理をし、掃除をし、洗濯をします。
 どんな注文をされるのかというと、「チャパティは焼き立てがいい」「ミキサーは使うな」「チャパティを焼く時はガスを使わず、火を焚いて釜で焼け」「前日の残りの食べ物は食べない」「洗濯機を使うな、私(舅)の分は手洗いにしろ」等々。

 彼らの物言いの特徴として、「お願い」を決してしない、そして「ごめんなさい」と「ありがとう」を決して言わないということが挙げられます。
 どういう仕組みかというと、大抵の場合、まず舅が「こうすることが良いことなのだ」と主人公(女性)に「教え」ます。女性がその「良いこと」を実行すると、まるでそれが普通であるかのように何でもない顔をして生活を続けます。もし主人公(女性)が「良いこと」をしなければ、今度は夫が「何故、父親の言う通りにしないんだ」と主人公(女性)を裏で責めます。そして最終的に舅の「ご高説」の通りに事が運ぶ、という仕組みです。
 つまり、上位男性(後述)が女性に「講釈を垂れる」だけで、下位男性(後述)がその意を汲むように女性に強く仕向けるのです。そして女性が上位男性に合わせた習慣を作ってくれるので、上位男性にしてみれば、こんなに楽に歪な自尊心を守れる制度はないのです。
 映画の後半で出てきた、「ブラックティーのおじさん」も、そうです。「すみませんが僕のわがままのためにミルクティーでは無くブラックティーを入れてくれませんか」とは絶対に言いません。客の立場から、ブラックティーがいかに良いもので、自分に取って重要かを大声で話すことによって、一番下位の存在(若い女性)である主人公にミルクティー(夫と舅用)とブラックティー(おじさん用)の二種類を作らせて持って来させることに成功しています。

「上位男性と最上位男性」


 少し話が逸れますが、私が注目したのはこの男性同士の繋がり方です。家父長制のこの家の中では、父親である舅は息子である夫よりも発言権があり、優遇されています。この文章中では便宜上、この「より優遇される男性」を「上位男性」と名付けます。劇中で舅は、「父親のいう事を聞いて今までやってきた、そして上手くいった」という旨のセリフを言っており、夫は舅の、舅はその父親の言う事をずっと聞いてきたということが分かります。
 つまり「父に従う息子」という構図が連綿と受け継がれてきたのであり、女性たちはその犠牲になってきた、と言えるのではないでしょうか。
 そして私が気になったのは、彼らが信仰する神様です。主人公が「間違った」ことをすると、舅は「神よ、お許し下さい」と半ば当てつけの様に呟きます。女性には(或いは他の男性に対しても)ごめんなさいと言わないのに、神様には簡単に許しを請います。その神様の名前がうろ覚えなのですが、「何某の息子のアヤパッシン神(?)」みたいな言い方をしていたので、男性神であることは確かです。そしてその男性神も誰かの息子、ということで、ここに家父長制の神聖化のようなものがあるのではないかな、と思いました。

「上位男性の言うことを聞く自分は偉い、凄い、誠実、賢い」と言う、何か、上位男性ありきの自尊心があるのではないかな、と感じました。それは少しマゾヒズム的な達成感によって構築されています。例えば、筋トレとかサウナにおいて多少の我慢をして無理を押し通すことで得る達成感のようなものがあると思います。
 劇中では生理中の主人公に触られてしまった、と夫が宗教に詳しい(とされている)知人の男性に対処方法を聞く場面があります。知人男性は「そういう時は牛の糞を食べるか、牛の糞の上澄み液を飲むと良い。……が、沐浴をするのもOK」と夫にアドバイスし、夫はすぐに沐浴をします。この場合、知人男性が上位となりますが、上位男性の言うことを多少努力して聞きいれることで満足しているのです。知人男性の言うことは神様のお告げでもなんでもありません。それに、牛糞を食べるという選択肢の方が神様に忠実に見えるのに、夫はハードルの低い沐浴を選びます。この時の夫は「神様の言う通りにする」という名目でもって、実は「上位男性の誰かの言う通りにする」ことが目的にすり替わっているのではないかと、私は思いました。

 また、さらに劇中では、絶えず家事をする主人公に向かって舅が「主婦がいる家はめでたい」と言う場面があります。これも非常に気持ち悪い言葉です。女性のことを尊ぶように見えて、実際の主婦の扱いは奴隷のようなものです。特に夫は、舅や他の宗教仲間に対しては決して怒りませんが、主人公に対しては怒りや不機嫌でコントロールしてきます。
例えばレストランで主人公が「外ではちゃんと食べかすを別の皿に乗せるのね」と夫の食事を見て言うと、「なんだと」と夫は途端に不機嫌になります。この不自然にも見える夫の怒り具合が、実は主人公の指摘が図星で、さらにマナーが悪いという自分の失態を後ろめたく思っていることの裏付けに見えました。夫は家に帰ってからも不機嫌な様子を見せつけたり目の前で話し掛けているのにわざと無視したりします。

 私はこれが、一方的で悪質な一種の躾のように見えました。まるで、トラをおとなしくさせておくために怖い顔で必死に鞭を振るっているような、そんな風に見えました。そのおとなしいトラを、「トラはめでたいものなんだぞ」と世間に向けてアピールし、トラ自身に向かっても言い聞かせているような印象を受けました。
 この「トラ」をおとなしくさせ、使役することが「正常」であり「平和」であると彼らが信じているから、「トラ」たちの不満や苦しみは無かったことにされてしまうのです。「トラ」たちは、男性たちの空虚な序列を維持するための犠牲となって、長い間、消費されてきたのだと、思いました。
 しかし一方で、夫をはじめとする男性たちもまた、「男性社会」に馴染むのに必死なのかな、と思いました。男性たちのコミュニティというのは、家父長制的な宗教のもとに構成されています。その中で、複数の上位男性の言うことを聞いて実行し、妻にもあの手この手で実行させ、いつ終わるかも分からない従属関係の中で生きているのかもしれないと、ふと思いました。
 

「男性の講義を受ける女性たち」

 毎食違うメニューの調理、洗いもの、夫と舅が食べ散らかした食卓の掃除、使った食器を一つずつ手で洗う……。夜が明ければまた同じ様に課されるタスクを、主人公は必死にこなしていきます。昨日も今日も明日も、調理をして片づけをして掃除をしてゴミ捨てをして手洗いで洗濯をして弁当箱を洗ってまた調理をして片づけをして……。
 主人公が終わりの無い仕事をしている間、夫は学校の先生をしています。夫は清潔感のある身なり(その綺麗な服は誰が洗ってアイロンをかけているのでしょうか?)で黒板の前で話します。「家族というのは社会における最小の共同体です」「家族とは……」、それを一生懸命聞いているのは、結婚前の女学生たちです。非常に気持ち悪くて良い構図だと思いました。

「不浄である生理」


 主人公が生理になると、その期間は個室に隔離され、家事はしてはいけないとされます。また同時に、他人の前に姿を見せるな、何にも触れるな、洗濯物も目に着かないところに干せ、などと言われます。生理は不浄であるとされているからです(誰の息子がそう言ったのでしょうね)。
主人公が生理の間は、他の親族の女性が家事を担いに来てくれます。夫と舅は何も手伝わない上に、不浄だから主人公の姿も見たくないと言います。
最初に来た女性は、調理にミキサーを使ったり、主人公と愚痴の様な会話をしたりしますが、二番目の女性は戒律に厳しく、主人公がベッドで寝る事も許さず、ゴザを敷いて床で寝ろと言いました。
これらの描写から、女性の中でも家父長制に従順な人とそうでもない人がいることが分かります。「女性の敵は女性」などと揶揄される状況は、このようなところから生まれるのだと思いました。

 この映画の最後には、生理中の女性を礼拝に参加させない、という戒律に対して「私達は閉経を待てます」というプラカードを持つ女性が映ります。それが一番スマートで行儀が良いと思っているのでしょう。ただ、そのスマートさや行儀の良さは、ともすれば下位男性の心理と同じで、その行為によって得る自尊心は非常に歪だと思います。自分が搾取されていることに全く気付いておらず、生理という「生物的な現象」でさえも上位男性に献上してしまっているのではないでしょうか。

「主人公が食事をするシーンの少なさ」


 この映画では、女性がキッチンの中でひたすらに食材を切って潰して茹でて混ぜて炒めて……と調理した後その鍋や食後の皿を片づける、という描写が泣きたくなる程に何度も続きますが、一方で女性たちが式典以外に食事をする描写がほとんどありません。主人公もまたその一人で、結婚式の時に飲まされていた白い飲み物の次に食事を口にするシーンは、なんと、物語後半の生理期間中(それも二番目の手伝い女性に暗く狭い小部屋に隔離されている時)でした。女性のみが食事の支度をさせられる一方で、女性が自分たちで作った食事を楽しむ描写がない、というのは、社会的に女性の生活というものが軽視されているということを如実に表している気がします。

「ミルクを運ぶ少女」


 主人公は最終的に、夫と舅に汚水をぶっかけてからキッチンに閉じ込め(どんなに物理的にキッチンに男性陣を閉じ込めても、女性たちの監獄であることに変わりがないのが、また、やるせないです)、夫の家から出て行きますが、この時、一役買ったのがミルク配達の少女です。
 少女は主人公がお嫁に来た時から毎朝ミルクを配達してくれて、たまに小さなプレゼントをくれる、恐らく主人公にとっては束の間の癒しをくれる存在だったと思います。主人公が生理の期間中、またプレゼントを持って来てくれるのですが、その時に「私、洗礼(?)をうけたの」と報告してくれます。家父長制のよりどころである、その宗教の一員になったということです。
 映画の最後、主人公が夫の家を脱出した後、新しい妻を代わりに迎え入れている描写があります。少女は、妻が入れ替わってもなお、ミルクを配達し続けるのでしょうか。少女は、このインドの、生暖かく息苦しい宗教的家父長制度の地獄に取り込まれてしまうのでしょうか。どうしても彼女の未来を憂えてしまいます。

「女性の穴埋めをする女性」


 生理の箇所でも書きましたが、主人公の生理の期間中、代わりに家事をしに来てくれる女性がいました。私はこれがどうも気持ち悪い制度(風習)だと思いました。生理中の女性の代わりに、生理中でない女性が駆り出されてしまうのは、非常に女性たちにとって負担だと思います。まるで、女性の不浄の尻拭いは女性たちで何とかしろと言われているようです。  
そもそも男性がまるで家事を手伝わない(または今日は男たちが料理を作ってやる、と言って調理のあと盛大に台所を散らかしてそのままにしたりする)のが原因なのですが、その穴埋めを頑なに女性にさせるのが気持ち悪いし納得がいきません。
 作中には、男性が料理を担当しているカップルも登場しますが、かなり先進的で数少ない例だと思います。主人公の嫁いだ家は「伝統的で格式のある」家庭だという風潮なので、ある意味で「家父長制的である」ことで(男性たちとそれに従属している女性たちの)自我を保っているのかもしれません。
 また最後の、後妻に主人公と同じ様に料理をさせている場面でも、「囚人」が一人逃げたところで次の「囚人」がその監獄に入るだけだという描写も、息苦しく恐ろしいと思いました。

「シングルマザーのフェミニスト」


 主人公が夫の家を脱出するきっかけとなったのは、家庭や家事に縛られる女性についての意見を言うフェミニストの女性の動画を、生理の隔離期間中にSNSで発見したことです。
 このフェミニストの女性の家に男性が四人、恫喝をしに来るシーンがあります。「このくそフェミニスト!」などと怒鳴り、庭にあったバイクに火を付けて帰って行きます。この時、フェミニストの女性とその子供(女の子)は怯えながら息をひそめて家の中にいます。
 私がこのシーンで思ったのは、もしフェミニストの女性の家に男性がいれば恫喝は受けなかったのではないか、ということです。家の場所が割れているなら、恐らく家族構成もばれていると思われます。女性しかいない家だと、いわば高をくくって恫喝に及んだのではないかと思いました。

 更に、これは推測ですが、フェミニストの女性もまた、家父長制的な息苦しい家庭に疑問を持ち、そこから逃げてきた方なのではないでしょうか。自分の娘にまでこんな思いをさせたくない、という思いで脱出し、他の同じ様な扱いを受けている女性たちにも伝えたい事があって、SNSで活動していたのだと思います。
 家父長制的な家庭から逃げたとしても、女性はまだまだ社会的に弱い立場であることがこの描写で分かります。それは、このインド全体が家父長制的な「宗教」(この場合は神様の教えという意味では無く、思い込みという意味)が蔓延しているからだと思います。これはインドだけではなく、世界中に蔓延る「宗教」だと思います。もちろん、日本にも。

「これからの私達」


 ただ、これからの私達に必要なのは、「宗教改革」ではないと思います。新しい女性優位な「宗教」に置き換えただけでは、この問題は解決しません。また別の犠牲者が出るだけです。「誰かを犠牲にした正しさや誠実さ、正義」にまず気付くことです。そして、まずは近しい人ときちんと会話することです。その時注意すべきことは、自分の牙も爪もしまって、怒りや不機嫌で相手をコントロールしないことだと思います。

 また、搾取されている人、一人一人が自分の力で逃げられれば良いのですが、社会全体の「宗教」が変わらない限り、また別の犠牲者がでることになると思います。社会、あるいは世界の「宗教」を変えるには、余りにも問題が大きすぎます。ただ、これを解決すべきだと思う人は確実に増えていると思います。だからこそ、この「グレート・インディアン・キッチン」がインドのみならず世界各地で上映され、確実な反響を得ているのでしょう。
 私はグレート・インディアン・キッチンを心から応援しています。そしてキッチンという名の牢獄に閉じ込められている女性たちが、本当に自分自身が望む人生を歩むことを、ひたすらに願っています。

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