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5.18 祈り~レオン

巡礼をはじめて3週間がすぎた。今は大都市レオン。サンティアゴ・デ・コンポステーラまであと300キロ強。これで6割近く歩いたことになる。

ここ数日、歩くスピードが加速している。前回なるべく急がないと書いたばかりだが、何かに引っ張られるように歩いている。景色の単調さに耐えられないのか、だんだんハイになってきているのか。足のマメを潰し、トレッキングポールにしがみつきながら這うような姿勢で前へ進む。ただこの苦行を早く終わらせたいだけなのか。それとも私はヤケになっているのか。

私はクリスチャンではないし特定の宗教を信仰している者ではない。なので今回の巡礼はただのチャレンジであり酔狂と言っても過言ではないのだが、一概にそうとも言い切れない。

信者ではないが興味があるのだ。この巡礼というものに。祈りのある生活というものに。キリスト教が抱える長く濃厚な歴史、その中で千年以上前から続いているサンティアゴ巡礼。こんなハチャメチャに厳しい行程を歩かせてしまう信心の力とはどういうものか? 無宗教の私はシンドイだけだが、信仰の篤いピルグリムたちはこの苦しさの中に何かを感じてたりするのか?――そうしたことをとても知りたいと思うのである。

実際この旅はキツイ。技術の進歩したシューズと装備でこれだから、昔はもっと過酷だったはずだ。「足にマメができる」という現象はいつの時代も同じなわけで、♪なのに~な~ぜ~歯を食いしばり~君は行くのかそんな~にしてまで~と思わずにはいられない。もちろんお伊勢参りに出かけた弥次さん喜多さんにどれだけ信仰心があったか疑わしいように、「楽しそうだからやっちゃいましたー」みたいなお調子者も数多くいただろう。でもやってみて改めて感じるが、コレちょっとやそっとじゃできない旅ですぞ。

巡礼道を歩きながら休憩がてら教会に入る。集落には必ず教会がある。それも町の中心に。そのまわりには広場があってベンチなどが置いてある。教会周辺は公共の空間なのだろう。

教会はどこも同じような構造だ。石造りで暗い。入った途端、静けさと荘厳さに包まれる。「外」とはまったく異なる世界。教会内にはステンドグラスや偶像、レリーフなどに仕立てられた神やイエスやマリアや数々の聖人たちがいる。チビッ子でもわかるように「物語」の概要がこれでもかとビジュアル化されている。脇にあるのは懺悔室だろう。

この長い歴史を通過した異世界が町のド真ん中に口を開けている。その中で佇んでいると、いろんな想いが巡りだす。

巡礼中、ミサにも2回参加してみた。どちらも19時から。アルベルゲのおばさんに勧められて足を運んだ。その中でもカリオン・デ・ロス・コンデスのサンタ・マリア教会のミサは忘れ難いものがあった。

中に入って驚いた。100人以上はいるだろうか。地元民らしき人も多く、後ろまでぎっしり埋まっている。私は信者ではないのですみっこでこっそり見学させてもらう。

神父がなにかしゃべっている。スペイン語ということもあって何を言ってるかわからない。でもまわりの人は私のわからないタイミングで立ったり座ったりし、私のわからないフレーズを繰り返す。私の知らない歌を一緒に歌う。私はあわててそれを後追いする。

みんな神父の言葉に真剣に耳を傾けている。いまここにいる人たちの心には神やイエスといったイメージが明確に像を結んでいるのか……そう思うと、こっちに来て初めてと思うほどの強烈な疎外感が押し寄せた。言葉が話せなくてもアジア人でも何も感じなかったが、私の心には何もない。彼らは持っているのに、私は持ってない。彼らには見えているのに、私には見えない。彼らが大切にしているものが、私にはからきしわからない。私は大事な何かが欠けているのだろうか。

ミサは3人のシスターがアコギで生歌を歌ったりして癒されるものだった。40分近くで終わり帰ろうとしたら巡礼者らしき人たちがぞろぞろ前に進んでいく。道中知り合った韓国人のおばさんが「あんたも来んさい」と目で合図するので私も付いて行った。どうやらこれから巡礼者のためのスペシャルトークがあるらしい。

前に集まった巡礼者に向けて神父とシスターが話をする。きっとこの巡礼の意義を説き、励ましの言葉を語っているのだろう。横を見ると涙ぐんでいる人がいる。老いも若きも熱心に聞き入っている。私はやはりぼんやり立っているだけである。

巡礼者が動き、今度は神父とシスターの前に列を作りはじめた。何が起こるのだろう? 私もここにいていいんだろうか?……迷いつつ私も流されて列に交じる。判断する間もなく神父の前に押し出されてしまう。え、これどうんの?……と動揺してると目をつむれと合図。目をつむる? 目を閉じると頭の方に手をかざされて――額にゆっくり指で十字架を描かれた。

その不思議な感触が今もおでこに残っている。

世の中には目に見えないものがたくさんある。祈り、救い、神様、憎しみ、幸福、嫉妬、思い出、たましい……私はスピリチュアルに疎い人間でおばけもUFOも見たことはないが、そういうものがあった方が楽しいと思う楽天家だ。これまで祈りも神様も天国も考えずに暮らしてきたが、そういうものを信じる人生というのはどんな感じなのだろう。それは今より豊かなものか、今見てる世界がまったく変わって見えるのか。もしくはそんなもん不要不急で、なくても平気というのなら、それらを持たない日本人はクレバーでスマートと言えるのか?

祈りが生み出した壮大すぎる建築、文化、歴史や風俗を体感しながら、「祈りのある人生」については引き続き観察していこうと思う。ゴールしたら神様が見えたりとかしないかなー。






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