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6.22 美しさ~リスボン

巡礼57日目。いまリスボンの中心地・BAIXA CHIADOのマクドにいる。あと4時間でリスボンを発つ。本当は離れたくない、まだここにいたいのが本音だが、だけどジェニー、あばよジェニー、俺は行かなくちゃいけないのだよルルル~♪

いま窓の下をトラムが走り抜けていった。この街を歩きながらリスボンの素晴らしさをどう言葉にすればいいか考えていたが、ひとまずは「人の好いカオス」ということにしておこう。

昨日は半日トラムに乗って遊んでいた。観光客御用達、名所名跡を縫うように走るルート「28E」。もうこのトラムが面白すぎた。歩道を歩く人とハイタッチできるほどのギリギリを攻めながら、リスボンならではのクレイジーな勾配をギシギシいいながら登っていく。江ノ電と花やしきのスリルを合体させたような乗り物というか、広電もこれくらいアトラクティブだったら楽しいのに~と思わず故郷を振り返ってしまう。

トラムは乗り物としても楽しいが、その運営がまた興味深かった。28Eは人気路線ゆえホームに長い列ができている。でも誰もそれをさばかないし、便を増発する気配もない。私は結局1時間待ったが、その間に離脱する人もじゃんじゃんいて、これはどう考えてもビジネス機会の損失である。だがそんなもんどうでもよかろうと係員は悠々マイペース。しかも並んでる間に切符の販売&チェックをすればいいのに、車両が着いて乗り込む際にやっとはじめるという始末。日本だと完全にキレられるでしょ。しかしポルトガルは何かにつけこんな感じなのだ。

日本だと当たり前だと思っていたことが、本当は当たり前じゃないかもしれない。もしかしたら違う常識があるのかもしれない――私がときどき無性に海外に行きたくなるのは、こうしたことが感じたいからである。

おそらくポルトガルの人たちは効率化ということをあまり考えてない。計画性というものもほぼほぼない。ここにはコスパもなければタイパもない。しかし「そんなに急いでどこ行くの?」じゃないけど、その効率化の先に何があるのか私はずっと見えなかった。少しでもラクに、少しでも効果的に、少しでも多く稼いで、他人より得をして、だから一体何だと言うんだろう?

ポルトガルだけでなく、ヨーロッパはベンチが多い。いつでも誰でも座れるようになっていて、いつも人々はそこに溜まり、おしゃべりをしている。ビールを飲んでいる。広場には必ずごみ箱があり、常に気楽でラクチンだ。

ここは誰も排除しない。ベンチの中央に余計な仕切りなんて絶対ない。誰が来てもウェルカムだし、むしろ誰が何をしていても気にしない。すべてが自分たちが快適なように作られていて、だから誰にとっても快適で、おのずと人が集まってくる。

「自分に厳しく、他人にもっと厳しい」じゃなく「自分に優しく、人にも優しく、基本はゆるく、相当テキトーだけど愛すべきヤツ」――それが私のリスボン評である。ここはトゥクトゥクも走ってアジア的でもあるし、チャイナタウンもカレーもある。南米ブラジリアンテイストももちろん濃いし、対岸のアフリカ、中東、イスラム、ヨーロッパと全部ごった煮。ポルトガルには「石のスープ」という民話があるが(実際の石のスープも美味い)、まさにそのもの。多様性と包容力、やっぱりすごく魅力的な街だと思う。


そうだ、忘れないうちに書き残しておきたかった風景があったんだ。

私はリスボン滞在中、MTBを借りて1泊2日で近郊の村を訪れた。『火宅の人』で有名な檀一雄が晩年に暮らしたサンタ・クルスという漁村。いちおうエセ文豪のはしくれとして、彼が愛した風景には興味があった――って、めちゃ嬉しそうだな俺。イベリア半島MTB旅はずっとやりたかったことでもあったのだ。

宿を出た後の午前10時、私は檀の石碑を見つけて、そこでしばしたたずんでいた。サンタ・クルスはさびれた漁村と聞いていたが、今は開発が進んできれいなリゾート地になっていた。そんな中に檀の石碑は建っていた。

「落日を 拾いに行かむ 海の果」

私はベンチに座り、句の向こう、眼下に広がる大西洋を見ていた。やがてベビーカーを引いたおじいさんがやって来た。ベビーカーからは赤ん坊の泣き声が聞こえる。おじいさんはベビーカーを止めると、中から赤ん坊を取り出した。まだ生後2~3ヶ月だろうか、小さな女の子らしき赤ん坊が火が付いたように泣いている。

おじいさんは赤ん坊をだっこして、泣き止ませようとあやしはじめた。やさしく揺らしてみたり、オモチャをぱふぱふいわせてみたり。でも彼女は泣きやまない。「そうじゃない!」「ちがーう!」と言わんばかりに、声量が容赦なく上がっていく。

おじいさんはあたりを歩いたり、「ほれ、ほれ」といった感じで海を見せたりする。「海だぞー、すごいだろー」。でもやっぱり彼女は泣き止まない。悲痛な泣き声があたり一帯に響き渡る。

私は2人のことが気になって仕方なかった。心の中では「じいさんちがーう! それきっとお腹が空いてるかオムツが濡れてるかのどっちか」と叫んでいる。しかしおじいさんは相変わらず海を見せている。「赤ん坊が海なんて楽しいわけないだろー」。もう泣き声は15分近く続いていた。これはマジで声を掛けた方がいいのかも……。

そう思ったとき、向こうから母親らしき人がやってきた。彼女はおじいさんの娘のようで、おじいさんから赤ん坊を受け取ると手際よくオムツを替え、おっぱいを口に含ませた。

その瞬間、急にあたりが静かになった。さっきまで響いていた泣き声がピタリとやみ、ざざー、ざざーと浜に打ち寄せる波の音だけが彼ら一家を包み込んだ。

しばしの静寂の後、赤ん坊がおっぱいから口を離した。すると再び泣きはじめた。なんとさっきよりも大きな声になっていた。

それを見ておじいさんは声を上げて笑いはじめた。それは「まだ腹が空いとるんか~」という感じでもあったし、「困ったもんじゃの~」という感じでもあった。「この娘はほんまに元気じゃの~」かもしれないし「いっぱい飲むの~」かもしれなかった。嫌がる様子など一切ない、朗らかで幸せそうな笑い声。

今度は3つの音が混じり合った。赤ん坊の泣き声と、おじいさんの笑い声、終わることなく続く潮騒……それが青空の下でひとつのものとして溶けていた。

特別なことなど何もないお昼前、静かな小村の1コマに私は心を打たれていた。ありふれた家族の風景に胸を締め付けられていた。そして、自分が多くの面倒を引き受けてでもこうして旅をしている理由が少しわかった。

――世の中は本当は美しいものにあふれている。

つい忘れてしまうそんなことを思い出すため、私は旅をしているのだ。



What a wonderful world。「この素晴らしき世界」。なんて素晴らしい世界なんだろう、私が生きているこの世界は!ってね。







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