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4.20 五十一歳の地図~広島reprise

いまパリにいる。パリのことはまたちゃんと書こうと思うが、広島で旅に出る直前、今回の旅に出る理由、旅のイントロダクションみたいなものを書いていた。前回のPOSTではあまりのわが身の不甲斐なさにその原稿を捨てると宣言したが、しばらく時間が空くと今度はそれはもったいないというセコセコ心が湧いてきた。

確かに読み直すとかなり青臭くて恥ずかしいものがあるが、しかし結局その青臭さが自分をこんなところに連れてきたのだ。青臭くてあほくさいのが自分の持ち味なら、それを隠すのもまたあほくさいのではないかな。

ということでそれを再掲する。うーん、たった4日前の私はこんな文章を書いてたんだなぁ。


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行くと決まったからには書いておかなきゃいけないことがある。 

私はいま51歳だ。すべての元凶は私が50歳になったときにはじまった。

自分が50になったとき、軽いめまいがした。

「嘘だろ? これまで50年間も生きたのか?」

自分の中で50年間もの月日が流れたという。半世紀? 俺が? それまじで?

確かにハタチになったときは「ハタチ?」と思ったし、30になったときは「30?」、40も同じく「40かぁ……」と戸惑いがあった。どの節目も自分が大台に乗ることがしっくりこず、こんな自分でいいのかなぁと思いつつ日常に巻かれてしまうことを繰り返してきたが、しかし50は別格だった。え、50? あと10年で還暦? 赤いちゃんちゃんこ着るんか? このいまだに浪人生みたいなマインドで生きている私が?

つらつらと思い返してみると、それなりのことはやっている。

結婚なんてものもしてみたし、子供なんてものも頂戴した。六本木の高層ビルでも働いたし、NYのエンパイアステートビルの上階でプロポーズしてフラれたこともある。なんならヨメを看取って、その反動で1年近く寝込んだりもした。そんな夫婦を人気俳優が演じて、自分とよく似た(だけど100倍バージョンアップした)人たちの物語をスクリーンの暗闇から眺めるという何ドッペルゲンガーなのか分からない悶絶体験もさせてもらった。自著も出させてもらったし、テレビコメンテーターなんてものもやらせてもらったのは本当に冗談みたいな成りゆきだ。

確かに50年分くらいは生きている。内容的にはちゃめちゃであることは否めないが、相当濃い人生を歩んでいる。そして今も広島で何とかやれている。

気付けばこんなところまで辿り着いたのか……うーんと頬杖をつくと途方もないような気分になった。

一緒に歩いていたはずなのに、鬼籍に入ってしまった人が何人かいる。元ヨメが逝ったのは38で、私たちは同級生だったので私だけが記録を51まで伸ばして、なおも更新中である。

普段使っているほぼ日手帳の「今日の言葉」みたいなものでよく憶えているものがあって、それは「あなたの年齢を3で割った数字があなたの人生の時刻である」というものだった。たとえば15歳だったら1日のはじまり前の早朝5時、21歳はお出かけの朝7時、36歳はちょうど正午あたり――なかなか悪くない見立てのように思う。

それで言うと私の人生時計は今17時=夕方5時。これをどう見るかは人によって意見が分かれるところだろう。夏ならまだまだ明るいが、冬なら暗くなるころだ。ここから夜がやって来る。太陽はもう戻らない。私の1日は暮れかけているのだ。

自分が黄昏の中に立っている気分を、私は悪くないと思った。夕焼はとても美しい。カラスがカーカー鳴いている。夕餉の匂いがする。町内放送が「ゆうやけこやけ」を奏でている。

だったら行かなきゃいけないな、と私はそのとき決めたのだと思う。
 

自分的に今回のカギは「50で旅に出る」という部分である。

よく人は「人生百年時代、50歳はちょうど半分、折り返しですね」と言ってくるが、残念ながら私はそうは思わない。私はすべてをきちんとコントロールできて、気力・体力が揃った状態で事に当たれるのはせいぜい65まで、あと10年強だと感じている。「そんなことはないですよ、まだいけますよ」と優しい言葉をかけてくれる人もいるが、40代から50代にかけての自分の衰えを思うと、その延長線上に自分の先行きがあることは自分が一番よくわかっている。

だったら残りの時間で私は何をやるだろう?

それをきちんと見定めたいと思ったのだ。見定めて、覚悟を決めた上で、全力で走ってみたいと思ったのだ。 

ただし、そうした決断に至るまではやはり1年近くの歳月がかかった。ミドルエイジクライシスに直面した悶々とした50歳の中、やっと決意が固まって踏み出し、「あー言っちゃった! 言っちゃった!」と慌てているのが51歳の今になる。

それにしても、いつも思うのだが、人生っちゅーのは明日死ぬかもしれない不安とずっと生きることになるかもしれない不安、常にこの2つに対処しなきゃいけないところがキモである。いつまでパーッと好きなことやってていいのか、それともコツコツ2,000万貯めることに執心するべきか、そのバランスの見極めは人次第だし、正解もまた人次第で悩ましい。まあ、その見極めがその人の生き様ということになるのかもしれないが。

そういう意味で、今回は僭越ながら「50になったら、みんな旅に出ようぜ!」と大声で言いたい気分が強くある。旅も自分探しも若者の特権ではなく、むしろ終わりが見えてきたからこそ、残りの日々をいかに生きるか考えたい。これまでの日々とこれまでの体験を総括し、人生のフィニッシュの在り方について思念したい――と、えらい真面目に書いてしまったが、本当にそう思うのである。

他にも理由はいろいろある。私がとても影響を受けた沢木耕太郎の『深夜特急』的なことを50代でやってみたら間抜けそうで面白いんじゃないかという企画性、2021年のアカデミー賞を獲った『ノマドランド』の後からじわじわ染みてくる老いと旅路の指針……各方面からの道が1つになって、こんなことになってしまったという感覚だ。


最初、このシリーズの通しタイトルは「五十歳のズーチー」というものだった。尾崎のパクリに業界用語風の照れ隠しを組み合わせてみたのだが、バナーを作ってくれた旧知のデザイナーに意気揚々と告げたところ「意味わからん」と早速却下された。持つべきものは私のスベリ癖を熟知している友である。

ということで、五十一歳の地図――この旅はスペイン美食紀行ではなく、私なりに生死を見つめる巡礼紀行になる予定である。いや、わかんない……これもただ♪半分初老の51's map~って言ってみたかっただけだし。

とにかく行こうぜ、50の友よ。



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