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反省日記

自分のためでしかなかった文章を公開することにした。

2021年1月21日 「反省日記」

毎日のように書いていた反省日記を今年からやめることにした。

初めての日記は、9歳の時に始めた父との交換日記だった気がする。その後は小学校の班メンバーとの交換日記とか、毎日会う親友と中学3年間ダラダラ続けていたり、高校生になり携帯を持つようになってからはひたすら大量の文字を一人で吐き出したりしていた。
大人になっても、常に自分にとって日記を書くことは、色んなことを受け入れて、自分を変えていくために、必要なことだった。

常に、何かに対して不満があった。問題だから改善した方が良い、と感じることが、ただ生きてるだけで五感にガンガン引っかかり、自分の身に降りかかる。他人と共有するのが難しくて、日記アプリの中でひたすら自分に問いかけ、自分を修正する癖がついていった。

自分を修正するのは、ストレスを減らすために、他人が勝手に変わることや理不尽なことがこの世から消滅することを期待するより、断然楽な方法だと思ったからだ。
ひたすら自分の言動や考え方を分析して戒める。とにかく毎日自分のことを責め続ける。そんなことを気付いたら3年くらい続けていて、書いている間いつも垂れ流しだった涙がある日から出なくなって、「強くなった」と思った。

しかしあるとき久しぶりにぶつかった難題は、自分の考え方を変えて解決できるような単純なものでは無かった。最終的に自分ではなく、環境を大きく変える以外に方法はないという考えに至った。
人生で初めて大きく環境を変えたときは、今思えば運が良かったし縁にも恵まれていたけど、かなり勇気も出したし努力もしたから、自分の中に貴重な成功体験として残った。その体験から少しの期待をもって、そのとき以来の勇気を出して難題解決のために動いたものの、今の時点ではまだ、成功と言うには成果が足りていない。

大抵のことには正解も不正解もなくて、何においても視点を変えるとその側面なりの理由が見えてきて、殆どのことを「仕方ない」としか思えなくなってきた頃のこと。
「仕方ない」ことが体験したことのないペースで溜まっていき、身体にまで及んだストレスすらも気力で耐えていたら、オーバーヒートを起こしたのか脳がバーストしたような感覚に陥った。大人になって一番怖い体験だった。
あの感覚でいたら、普段できないこともできてしまうなと、今まで理解できなかったことを理解できてしまって、怖くて、悲しくなった。
ただでさえ人と共有できる感情が多くないと感じるのに、それ以来、防御本能なのか何なのか分からないけれど、感情が喜怒哀楽に達するまでに今までよりも時間がかかるようになっていて、危機感をもちつつ、これもまた自分一人で改善できることでは無いんだろうなと思った。

人は簡単に傷つく。私が傷つかないことで傷つく。傷つけようとしてなくても、善意でやったことでも、傷つくかどうかは他人が決めることだ。だから接するのが怖い。他人を傷つけてしまうことが、私にとって一番、怖くて辛い。それなのに、今の私の問題を解決するために必要なのは、恐らく人と接することだ。
もう自分と向き合っても何も出てこない。日々の反省はあれど、今何のために自分を変えようとしているのかが分からなくて、何も書けない。
コロナで思うように動けないのも原因のひとつかもしれないが、いつまでもこんな無気力でいるのが良くないことは分かる。
だから、自分しか見ていない・自分しか見えていない反省日記を書くのをやめる。他人を見て、他人に見られないと、次に進めない気がするのだ。


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