病床の人間の心理と思考

全く異なる目的で選んだ本だったんだけど、思わぬ感情に触れてしまったのでこの場所でメモしておく。
闘病中の家族を看病する側の人に読んでもらいたい。いや、父を看病し見守っていた頃の自分に読ませたい本でした。

簡単に本の解説をすると、レース中に大事故に合ったレーサーが死の淵に立たされるけれども、大手術を繰り返し退院して日常生活を取り戻そうとするまでの話を、事故に合った本人が綴っている。

この本で初めて出会ったのが、極限に置かれた病院患者の心理を分かりやすい言葉で残している表現。推測や想像ではない本人の言葉で書かれているからこそ「なるほどな」と説得力があったりもする。

死を覚悟する様な状態で治療を受けること。それは想像を超える極限状態なのだと書かれている。そんな闘病生活と病院の対応、変わりゆく自分の考え方を弱さを含めて、闘病する患者の本音を見た。

どうしてもここに書き残しておきたかったのは、固形の食事が取れるようになった患者が、周りの、それこそ食事を介助してくれる看護婦などに「それを分け与えたくなった」というエピソード。

『果物を勧めたが、いらないそうだ。でもお茶は飲んでくれて、またうれしくなった。』

<中略>

『赤ちゃんは、相手に対する浸しさの表現なのだろうか、それが離乳食であろうと幼児用のクッキーであろうと、相手が食べたいか食べたくないかにかかわらず、人に勧めたりする。僕も同じ様な行動をとった。』

病床の父もよく僕に「ほれ、これ食べろ」と自分がつまんでいたオヤツなどを分け与える様な行為があった。僕自身は照れもあっただろうけれど、遠慮もあって、その誘いを断っていた。
その頃の父の心理状態は分からないけれども、父のそうした行為は、父が喜ぶのであれば受け取った方が良かったのではと、軽く落ち込んだりもした。

父が一時帰宅などをしていた時も、僕が実家に泊まる際には夕飯と次の日の朝食を作ってくれていた。身体がきついのか、だんだんと簡易なものになったし、味もかなり落ちていた。ちょっと食べるのがキツイ料理も正直あった。
ただ、父の前だけでは美味しく全て食べるように努めた。もしかしたら、父もどこかで気づいていたかもしれないけれど、そうして「父が与えてくれる食事」を口に出来たのは良かったのかもしれない。

この本は看病する側の人に勧めたい。疲れやストレスから「どうして」と思う気持ちが浮かぶことが良くある。その時に患者側の心理のヒントがここに書かれている気がするから。

もちろん作家本人と、他の患者との思いや考え方は異なる。病気のレベルも進行具合も異なる。でも「そうか、こういう心理もあるのか」と気づくだけで、家族の看病が少し軽くなる気もしたから。

後から気づくとさ、こういうの凹むよね。後悔はないんだけど、もしかしたらもっと対応の仕方あったのかなって。当時は僕自身、疲労で限界ギリギリだったけれども。

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。