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乳飲み子と餓鬼②

只たのむたのむ人にはたのまれん
たのまぬものもたのめとぞおもふ
わがちかひたのむ衆生をすくわずは
弁財天女の名をやながさむ
むりをせずり ひめいはくにわきまへよ
ひとはたからをめぐみあたへん

弁財天のご利益のひとつに、気力の充実がある。なんとも言えない高揚感、わくわく感。
しばらくこの感情をわすれていた人にも感じることがあるかもしれない。

時として、この充実した気力というのはお金を産み出す力になる。
そこまではいかなくとも、もしかしたらこのいい気分を心にしまい「明日もがんばろう」「たのしくすごそう」「よい時間をすごそう」など、自分がより良くないたいたい、と望む活力につながる。 
 
厳島弁財天という女神は、5大弁財天のなかでも格が高い。にもかかわらず験をわかりやすく見せてくれる気さくさも持っている。

神仏は人の成長を大いに喜ぶ性質があり、弁天様もその一柱だ。
 足を運び参拝にきた者にはまんべんなく上記のようなご利益を与えてくれる。

 神仏がどんなものかわからない、という人でも、神社にいけば2礼、2拍、1礼、お寺であれば合掌一礼でお参りをしたことがあるだろう。信仰が厚ければ祝詞やお経、真言、納教、修法‥近ければ近いほど礼を見せる方法がそれぞれに異なっていく。

それでも、わざわざ宮まできてお参りをする人に対して、神様はとても喜んでいるようだ。
だからといって安易な気持ちでお金ください、宝くじ当ててください、こうしてください、ああしてください、話し相手になってください、というものに試さり振り回されるような存在ではない。

いまあなたにできる最大の礼をもって会いにったらご利益を与えてくれる、という感じでしょうか。

僧侶や宮司でなくても、お金がなくても、お経が唱えられなくても、神様の名前すらわからなくても、作法がわからなくても、その人の最大の礼を神前で見せることが礼なのだと。
できることをやる、それだけでいいと。

弁才天がなんども同じこと尋ねてくる乳飲み子へ応えたことは、
「乳飲み子を、やめなさい。それを演じることもやめなさい」
「ないもの探しはやめなさい」
「あなたが会いにくるのを待っています」

でした。

何度も同じことは言わない。
自分の力でくることを待っている、と伝え戻られました。
何をするにも自分で決めたり考えたりができなくなったその乳飲み子は、何度も「どうしてひとりじゃないといけないの!」「なんでいっしょじゃだめなの!」「神様はできない人間にやれなんていうのはおかしい!」と猛反発をし叫び喚いた。

喚いて叫んで他人を動かそうとしないこと。
「乳飲み子をやめなさい」
それが分かったらまた会いましょう、その時にまたお話しましょう。
そういって帰って行きました。

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