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『コンビニ人間』の私

村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んだ日に書いた日記を、知り合いでない誰かに読んでもらえたらいいと思い、投稿することにした。


こちらとしては不可解でしかないのだが、なぜか友人たちは私に読書家のイメージを持っているらしい。高校に入学して期待を込めて訪れた図書室が、図書を有する部屋としての矜持のない寂れた自習室だと分かった時から、読書はしていない。大学時代、授業に必要な純文学にいくつか目を通したくらいだ。これを読書と呼ぶのが適切かどうかはわからない。
それなのになぜか、読書家のイメージがついてしまっているらしい。本を読まずに読書家の風格を出す10の習慣、みたいな本でも出そうかしら。
周りが私に抱くイメージを知ってから、こころなしか読書に対して前向きになってきた。形から入るというより、むしろ他者によって勝手に作られている期待の枠に"ちゃんと"収まりに行っているのだから、おかしな話ではある。

それでも収まりにいったのは、読書家であることの期待をするなと友人たちに意味不明な釘を刺してまわるよりは、いっそ読書家になってしまう方が自然で、手っ取り早く、賢明だと思ったからである。

しかし、本を読む習慣がなさすぎるがあまり、本屋に入ると、そのおびただしい文字列を前にして思わず立ち尽くしてしまう。こんな気分の時、どんな作家のどんな本を読めばいいのだろう。映画なら、経験に基づいた直感に従えば、大抵満足のいく出会いができるというのに、本になった途端、私は迷子同然になってしまう。
まるでパーティ会場に紛れ込んでしまったウォールフラワーのごとく、なるべく影を潜めて息を殺して泣きそうになりながら探索し、それでも何も選べず、何にも選んでもらえず、そんな自分が少し嫌になり、店を出る。こんなことをしばらく繰り返していた。

何にも選んでもらえず、と言ったが、なんとなく、私は映画や本といったサブカルチャーに、運命的な出会いを求めている節がある気がする。
誰かの紹介、SNSの情報、そういった何かに誘導される出会いではなく、「あ、今これ観たい」「ずっと観ようと思ってて観ていなかったこれ、今かも」という、タイミングとフィーリングを重視した、恋に夢見る乙女のような出会い方を切望しているのかもしれない。
だから、人からのお薦めや本屋のランキングコーナー、SNSの胡散臭いアカウントに対して、「私には私の運命の人がいるから紹介なんて結構よ。まだ見つけていないだけよ」と言わんばかりに、斜に構えて拒絶していた。

運命の相手がどんな相手か、自分の中で描けてすらいないのに、出会うのをただ待つのは随分おこがましいのではないか。何がきっかけだったか、ふとそんなふうに思ったのを皮切りに、読書家の友人たちに、彼らの最近の良き出会いについて尋ねてみることにした。

それらを手に取って、読んでみることで、自我丸出しの文体は苦手だ、とか、短絡的なハッピーエンドの作品は好みではない、とか、少しずつ、自分の中の好みがわかるようになってきた。
読書家たちは流石なもので、私がこの作品のこういう部分が好きだった、苦手だった、と話すと、じゃあこれはどう、と他の作品を教えてくれる。出会いが広がった。


そうやって本の海をある程度自由に泳げるようになってきたとき、村田沙耶香の『コンビニ人間』を読むことにした。

コンビニの一部として18年間機能してきた風変わりな主人公が、社会が求める"普通"の型にはまろうと試みて、というより、ひょんなことから無理やり型に押し込まれて、それによって生じる違和と最終的には決別し、コンビニ人間として生き続けるという選択をする話。

私はおそらく、コンビニ人間の彼女のようなASD気質でもサイコパス気質でもないが、「え?なんで非常勤なの?」人に会えば必ずと言っていいほどこれを聞かれる人間として、少なからず共感めいたものを得ることがあった。
私は非常勤講師としてとある高校に勤めている。
非常勤講師を知らない人向けに書くが、担任や校務分掌を担うことはない、ただただ授業をする非正規雇用職員である。

まるで「非常勤"なんて"選択をしなくていいはずなのに」と言わんばかりの不躾な質問に、わざわざ自分の事情を話すのは億劫で、手頃でもっともらしい言い訳が欲しいと思うことがある。単純に、専任になる覚悟も実力も体力もないから。それ以外に何もありはしない。
覚悟がないことは未熟で、実力がないことは努力不足で、体力がないことは甘え、世間一般はそうやって思っていて、未熟さも努力不足も甘えも当然悪だと思っていて、まさか私が、やればなんでも卒なくこなせると過大評価されがちな私が、そんな救いようのない悪から脱することができない怠惰な人間だなんて思わないから、何かよっぽどの考えがあるのでは、と、土足でズカズカと踏み込んできて「なぜ?」と尋ねてくるのだろう。
私が見るからに覚悟も実力も体力もない、誰が見ても社会不適合な人であれば、そんなことは尋ねてこないに違いない。

そんな周りの人に「私は普通ですよ、そちら側ですからね、排除しないでね、異質じゃないよ」と安心させるために、「あと2年でこの学校は辞めて、常勤か専任に〜」など適当に喋ってはいるが、決して強い意志のもとそんな未来を描いているわけではない。教員なんぞ別に死ぬまで続けるつもりもない。だから何も考えていない、が正直なところだ。でも、こう答えさえすれば、周りの人たちは、まだ少し腑に落ちなさそうな部分はあれど、一旦安心した顔になる。だからそれが正解だと思って喋っている。

この部分は完全に、コンビニ人間と同じだ。それに加えて、そんなつもりは全くないのに、"普通の人"どころか、"ちょっと優秀な頭のいい人"に擬態してしまっているようだから、なおのことタチが悪い。
職場での私を知らない人からしたら、さぞかし不思議なんだろう。あの人やこの人が専任の道で生きているのに、私が非常勤で生きていることが、さぞかし不思議なんだろう。
でも職場の私、私の中身を知った人たちからは、言葉を選ばずに言うとガッカリされ、軽蔑され、心配されているのだから、私としては、今の生き方が私の実力としては妥当だと思っている。それ以上を望める立場にないと本気で思っている。

人を見る目がある愚かな人からは、学歴で私を見られ、勝手にガッカリされる。
人を見る目がない愚かな人からは、学歴で私を見られ、勝手に優秀だと信じ込まれる。
人を見る目がある賢い人からは、人としての、国語教員としてのあまりの未熟さに心配される。
私はそれが私の実力であり社会の中における私の評価だと思っている。私は私のペースで成長していくので心配は余計なお世話だが。

授業をしている時の私は、生きがいを感じていて、完璧とは言いがたいが過不足なく機能していて、マニュアルから派手には逸れることなく、歯車として教室を回している。でも、学校から出た途端に世間の"普通"ではなくなる。そういう意味でも私はコンビニ人間だ。

そして私もコンビニ人間の彼女と同様に、"普通なら劣等感を覚えるべき"立場なのに、その立場に劣等感を覚えているわけでもなく、あまりにも飄々と堂々としているから、周りの"普通"の人たちが不審がってドカドカと土足で踏み込みにくるのだと、溜飲が下がった気がした。


『コンビニ人間』を読んだうえで、生徒たちに手軽に伝えられることを考えようとしていたのに、気がついたら到底授業では話せない内容になってしまった。
また1から練り直しだ。四角いぎゅうぎゅう詰めの歯車を、円滑に回すために。

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