合理的に考えると共生的思考になる(はず)。
合理的に考えるっていいことじゃないですか。
「合理的」って、理にかなっていて無駄がないってことだし、ビジネスでも日常生活でも、何かの判断や行動に論理的整合性があって、ゴールまでのプロセスや手段がしっかりしてるってことでしょ?
そんな合理的な判断が出来る2人が議論すると、とてつもなく「ねじれの位置」になっちゃうことってあるじゃないですか。もう、絶望的なくらいに。あれ、お互いの言ってることは、それぞれ完璧なんだけど、なんか、かみあってなくね?みたいな。
ってぼんやり思ってたときに、一瞬タイトル観て躊躇したものの、それを含めてジャケ買い衝動を誘発した小説『僕の狂ったフェミ彼女』、読みました。
ジェンダーに関する諸課題を「フェミニストの女性とミソジニーの男性が恋愛したら?」というユニークな思考実験で小説化されてます。
とにかく小説として面白い。主人公のスンジュンと「彼女」のキャラが際立ってて良い。そりゃ、ドラマ化するよな。
で、この作家のミン・ジヒョン氏は、色々調べるとそのキャリアは映像や演劇に関する学歴が豊富でかつ脚本家だったりなので、現代社会の複雑なテーマやデリケートな話題を単に問題提起するだけじゃなくって、読み物として馴染みやすいストーリーテリングだったり、表現もユーモアや風刺的な手法が小気味よい。
で、「合理と合理」のねじれの位置。読んでて絶望しかないかわりに、論理を超えた感情(ここでは恋愛)ってあるよねってことで、絶望と別次元の希望も添える終わり方。
まあ、この小説は、少なくとも「この問題について自分は合理的に考ている」と思っている男性に対して、新たな視点や気づき、共感性をあたえることに成功していると思し、もちろん、女性にとっても、「男って(この問題に関しては)無理解だけど、頭の構造はこうなのね」という理解に一役買っている。
例えば、女性が社会的に不利で、危険にさらされる立場であったり、特定の生き方を強要される空気みたいなもの(世間体とか、儒教下での共同体思想、家父長制)が現実として存在しているということと同時に、その同じ共同体思想の中で悩み、劣等感を感じ、アイデンティティを危うくしている男性もいるという現実も並立させる。
もちろん、どっちの現実がより厳しいか、といえば、歴史的にも女性の方なんだけれども、問題の本質は、男女の対立構造の憶測にある社会構造や共同体思想そのものに雁字搦めになっているという立派な社会問題であるということにあるようにおもう。
その視点は、ひとえに、当事者である女性作家が、女性目線ではなく、敢えて男性を主人公にして男性目線でこの課題に向き合っているということで獲得できているようにおもいます。
これがあるからといって、なんの解決にもならないけど、少なくとも、お互いの合理性がぶつかって相容れないときには、互いに、「相手の立場」への一定の理解と想像力が必要で、主観的・独善的になりがちな自分の論理をいったん冷めた目線でみる必要もある。
そういう意味で、合理的思考の先って、「共生的」な思考が必要なんだとおもう。互いの違いを認めつつも、全員がフェアに社会的あるいは自己実現的な幸福を得るための方法を考えるという。妥協とか譲歩っていうとあれだけど、でも、満額回答だけが世界を切り開く選択肢ではないと。
そしていま、ゲームがしたくて勉強したくないと息子と、ちょっとは勉強しやがれっていう父の「子どもと大人の合理性のねじれ構造」に対して、どう共生できるかを悶々としているんですが、そんな私の飛躍が、イマココです。