人間の自己家畜化は何をもたらすのか? AIに自ら支配されることを望む未来はありうるのか?
人類のここ3000年の歴史は、『人間の自己家畜化』の実現過程と言えるかも知れない。
『自己家畜化』 すなわち、自身を「(自然界への適応ではなく)人間社会にとって役立つ生き物」へと作り変えていく、というプロセスだ。
実際、この3000年で人間の脳は、増大するどころか縮小しているという。これは、オオカミが犬へ家畜化されたときにも生じた生物的変化とのことだ。
一体、われわれ人間に何が起こっているのだろうか?
人間は、社会的動物である。
つまり、人間同士でコミュニケーションを行い、緊密に意志疎通を図り、生きるために互いに協力して、共同体社会を構築していく。
その一方で、肥大化したエゴは、他者を攻撃し、人や財産を略奪し、独占し、兵を従え、さらに他のコミュニティを侵略するという暴虐を繰り返す。
この人間の二面性、平和協調と暴虐侵略が相克し合いながら形作られたのが、人間の歴史だと言える。
ムラ、民族、宗教、国家という安定した枠組みの中では、人は平和協調を目指して制度を構築していく。
その一方で、自分たち以外の敵対的ムラ、民族、宗教、国家からの侵略に備えるため(あるいは自ら侵略を行うため)その狂暴な本性、つまりは軍事力を保持し、行使し続ける。
この平和と戦争の反復は永久に終わらないと思われたわけだが、20世紀に発生した二つの世界大戦の結果、ようやくその歴史に終止符が打たれることになった。
つまり、民族や国家を超えた「世界」というより大きな枠組みの中で、平和を実現しようという国際協調の理念が打ち立てられた、ということだ。
これによって、人間の自己家畜化が一気に進行することになる。
なぜなら、(不完全ながらも)外敵に襲われることのない世界規模の「牧場」ができあがったからだ。
金融経済はグローバル化し、人は国家を超えて経済活動をするようになり、それによって国際分業も進行していく。
日本が貿易黒字を連発する経済大国として名を馳せたのもこの時期だ。
このように外部から攻撃される危険性が減少し、社会集団内での合理的かつ効率的な分業が進み、不条理格差が縮小するにつれ、人はその攻撃的な本性を失っていく。
他者に対して攻撃的である必要性がなくなるからだ。
攻撃性の高い人間は淘汰され、社会は、温和で、共感性や社交性が高く、社会に従順で野心的でなく、自分の与えられた役割を淡々と無機質にこなす存在へと人間を作り変えていく。
その自己家畜化が顕著に表れているのが、現代日本社会だと言える。
この変化は、悪いことではない。
むしろ、社会の安定や生産性の向上にとっては大きなメリットがある。
ただ、問題がないわけではない。
その一つが、出産養育の問題。
家畜は、自身で生産数や飼育数を制御できない。
それは飼育者の手によって人為的になされる。
が、同じことを人間は自身に適応できない。倫理的に到底受け入れられないからだ。
高負担を強いられる出産養育が個人にとって「合理的で効率的か?」となったとき、「否」と判断する個体が多く現われるのが、この「自己家畜化」の問題点の一つだろう。無論、高齢者の介護や税負担も無視できない問題だ。
もう一つの問題が、自意識の喪失。
家畜に個我は必要ない。
与えられた社会的役割を忠実に実行できるかどうかが、家畜としての価値のすべてだ。
ゆえに自己家畜化された社会では、人間の自意識が希薄化する。これは個人の社会性の高まりと相反する現象でもある。
自意識は、ともすれば他者への攻撃性や自己中心性へと転化してしまうが、それは独創性や革新性、多様性、リーダーシップといった社会活力の源泉でもある。
自己家畜化は、人間の攻撃性や自己中心性を希薄化するのと同時に、これら要素も奪い取ってしまう。
結果、上述の出産養育の問題と相まって、社会活力を著しく損ない、全体社会の衰退を加速させてしまう
希薄化し、弱体化した自意識は、あるいは近い未来、自己の生存判断を人間知能並みに高度化したAIという「集合知」に委ねてしまうかも知れない。
自身の頭で考え、決定し、失敗し、その責任と苦痛を背負うくらいなら、その役割をAIに委ねてしまった方が楽だからだ。
つまり、人間の自己家畜化の最終形態は、「人間自らがAIに支配されることを望む世界」となる可能性もある。
このような未来が実際あり得るのかどうか。それは人間にとって好ましい進化なのか。あるいは、そうでないならばこのような未来を回避する方法はあるのか。
今後、この点を考察していきたいと思う。
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