夢のカラクリ

自分は毎晩のように夢を見る。良い夢も、悪夢も、淫夢も見る。目が覚めてからも、夢の内容は大体覚えている。自分が見る夢は、いつも現実味を帯びていて、空を飛んだり宇宙に行ったりすることは無い。けれども、どこか違和感がつきまとう奇妙な世界の中に、夢の自分は存在している。

先日は強烈な悪夢にうなされた。

「公園の砂場に見知らぬおじさんが寝転んでいる。自分はハサミを持って隣に立っている。おじさんの金玉を切らなければならないのだ。ほんまにいいんですか?と言うと、おじさんは、早よしてくれ頼む、と催促してくる。仕方無くおじさんのズボンを脱がして金玉を取り出して、掴み、皮を切るが不思議と血は出ない。魚をさばく際の皮剥きの要領で、金玉の皮をハサミと指を使ってベリベリとめくる。中は真っ赤でぷりんぷりん。うわ気持ち悪、と思わず言うと、おじさんが滅茶苦茶にぶちギレる。」

目を覚ました自分は汗だくで、はぁはぁと息を切らしていた。念の為、布団をめくりパンツを覗いて金玉を確認したが何事も無く、安心した。

夢にはカラクリがある。なぜ、このような悪夢を見たのか考えると、思い当たる節があった。実は前日の晩に、自分は医者の方と話をしたのである。その方は外科医をされていて、自分は、手術についての興味深い話を色々と聞いていた。さらに、そのとき自分が食べていたのは、白子ポン酢だったのだ。

手術+白子のイメージが潜在意識となり、金玉をハサミで切る夢に繋がったと考えれば、合点がいく。

一時期、枕元にノートを置いて、見た夢の内容をすぐさま綴る、夢日記なるものを日課としていた自分にとって、夢の内容がアイデアの糧となることも少なくない。夢独特の不可思議なユーモアが、自分の思考に少なからず影響を与えているような気がする。しかし考えてみると、その夢もまた、自分が過去に現実世界で経験したことや思考したものから構築されているので、夢とはいえ結局は自らのイメージの範囲内に過ぎず、それが現実の自分に行き戻るのである。つまり、現実で得た何らかのイメージが、夢というフィルターを通り、形を変えて再び現実に戻ってくる、というわけで…。

夢日記には副作用のリスクもある。毎日のように夢日記を付けると、常時寝惚けて夢うつつと成り果てる。夢と現実の狭間が曖昧になり、いつの間にか、夢を見るために現実生活を過ごす、という逆転現象の日々を送ってしまう。そして退廃堕落な暮らしの結果、気が狂うことがある。そうならぬよう注意を払いつつ、時折は夢について書いてみようかと思う。

何もいりません。舞台に来てください。