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じいちゃんがエア乾杯した話

夏の新潟は、暑い。

暑いが、それはなんだかお湯炊きに失敗した湯船みたいな不思議な暑さで、ぐぐっと踏み入れると奥底にひやっとした冷たさがある。

電車から降りると、父が言った。

「お前が上場企業に就職決まったって教えた瞬間に毎日株価チェックして、『お前、この会社の株買え』ってうるせーんだよ。4回も余命宣告受けた爺が、よく日経新聞読んでるよなァ。」

それが私のじいちゃんである。

持ち前のバイタリティとコミュニケーション能力でゼロから地方銀行の支店長まで成り上がった。若くして伴侶を亡くしてからも、ジムに通っては若い女の子と仲良くなり、40も歳の離れた女性を連れていたこともあった。かなりブイブイ言わせていたであろう人生である。

そんな生命力がモノをいったのか、70代という高齢で白血病に罹ってもなお、4回もの余命宣告を更新していた。

要は、すごく男性的で、力強いじいちゃんなのだ。

開かないビンの蓋に困ったら、ぜったいに開けてくれる。そんなじいちゃん。

病室のドアを開けると、何本もの管につながれたじいちゃんがいた。

さすがに4回も余命を更新したじいちゃんはクタクタで、でも強がって体を自力で起こす。

「おお、来たか。毎日寝てばっかりで退屈さね。」

直視できない。あんなに強かったじいちゃんの命は、まさに風前の灯火だった。

誕生日まで生きるのが目標だったが、もう誕生日を過ぎた。今度は美優の卒業袴姿が見たくなってきた。俺ってのは生にこんなにも執着する生き物だったんさ。みっともない…

じいちゃんは咳き込みながら畳みかけるように話していた。

「そんなことないですよ。お義父さんには、もっと長生きしてもらわなきゃ。」

これ、美優と選んだんですよ。そういって母が、きれいに包装された箱をじいちゃんに渡す。

じいちゃんが震える手で包装を解くと、小豆色の江戸切子みたいなおちょこが出てきた。

私がそのおちょこを見たのは、そのときが最初で最後だった。

親元を離れて暮らしていた私に気を遣って、母は私に何も言わずひとりでおちょこを選んだのだ。

そして、私と選んだと言ったら、じいちゃんが喜ぶからそう言ったのだ。

でも、それは嘘だ。

「きれいなおちょこだァ。もういつ死ぬべきかって考えていたが、これでみんなと乾杯したくなった。また欲が出た。」

じいちゃんは満面の笑みだった。

「きれいなおちょこでしょ。これで、みんなで越乃寒梅を飲もうよ。」

できるだけ得意げに言った。母の心配り、じいちゃんの喜びをもっと素敵なものにしたかったから、だと思う。うまく微笑んでいただろうか。

なんというか、すぐにでも帰りたかった。

じいちゃんは震える手でおちょこを病室の明るすぎる蛍光灯に透かして、ぎゅっと目を瞑った。

何も入っていないおちょこを天高く掲げ、「乾杯!」

じいちゃんはのどを鳴らして、空のおちょこを飲み干す。

どんな銘酒にも勝る、美味い何かを。

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