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宮所直喜という男後編

宮所直喜という男。後編。

ここで出会ったのが宮所直喜という男だ。

僕のように小柄な身なりで、僕のようにボールタッチが得意な奴だった。やけに御坊弁がひどかった。※御坊(和歌山県御坊市)。十三生まれ、兵庫育ち、関西出身の僕でさえわりと早口のコテコテだと思っていたが全然違う。濃ゆい濃ゆい。濃ゆくて汚い。こゆきた。こゆきたまきだ。めっちゃすいませんこゆきたまきではなかったです。濃ゆくて汚かったがもちろん彼の言葉に悪気なんてないですよ。僕のこゆきたまきもね。ただそこで生まれてそこの町の言葉。一人称は「わい」。わいはねー、という。可愛い。もし元マラソン選手のワイナイナ選手も一人称がわいならば、「わいの名前はワイナイナですねん」だ。もしもの話だ。

とにかく、←(ごまかしたくて大きめの声で)

彼とはすぐに仲良くなった。基礎練習はいつも一緒にした。合宿があると同じ部屋で寝た。切磋琢磨した。休みでも遊んだ。サッカー部全体的に仲は良かったが、特に彼とは仲が良かった。熱い男だった。友達が悪さした時、こいつの何が悪いねん!と先生に突っかかる奴だった。いや悪い事したから。わかっていても突っかかる。なんとかしたいから。なんていうか真っ直ぐで聞かずんぼで友達思いで自分を犠牲にする。ほとんどルフィーみたいだ。ルフィーと違うのはちょっとだけやんちゃするとこがある。待てよ、ルフィーもやんちゃする時ない?まぁ可愛い奴。

僕の高校でのサッカー生活どうなるかと思った。思っていた名将に教えてもらう事はなかったが、その名将に教えてもらっていた先輩たちがいたのだ。かなり技術があり上手かった。やべー、凄い人たちだ。そう思った。この人たちからいろんな事を吸収しようとした。高校へ行っても池田雅志の言葉通り、ほとんどが小さい頃からやってた練習と変わらなかった。ただどんな意識でやるか、なんでこの練習をするかの意味。それをわかってやるのと、わからずにやるのと大きく意味が変わってくるのだ。それをこの高校の時にめちゃくちゃわかった。
そこからしがみついて1年でレギュラーを獲る。宮所も1軍のサブにいた。

2年になると、僕たちの1個上の先輩たちは少なかったということもあり、僕たちの代がほぼ主力メンバーになった。この頃僕がOMF、宮所がDMF。以前僕のnote5でこの人がチームにいてくれたら助かるランキングがあったと思うが、そのベスト3全てがこの宮所と同じDMFというポジションだ。ここのポジションはボランチと呼ばれたり、最近ではアンカーと呼ばれる事もある。しかしボランチとアンカーは少し意味合いが違う。ボランチはポルトガル語で舵取りという意味。つまり全体を見渡し試合の流れを掴む、また攻守のバランスを取る役割。アンカーは相手のゲームメイクを潰すといった感じだろうか。とにかく僕のサッカー論ではこのポジションが1番重要だと思っている。そこに彼がいた。自分を犠牲にして、突っかかる奴。まさにこのポジションが向いていたのだ。だから僕はおもっきり攻撃に力を入れれたし、彼が後ろにいる事が心強かったし、自由にプレーできた。
そんな2年から3年に上がる春合宿で宮所は謹慎処分を受ける事となった。ルールを破ったからだ。仕方なかった。ただチームに彼がいないのは痛かった。そこから当面彼はボールを触らせてもらえない、走り込みの練習のみしかさせてもらえなかった。彼は技術はあったが体力はなかった。そんな彼が心改めて毎日走り続けた。結果チームの誰よりも走れるようになったのだ。そらそうさ走る練習しかしてなかったんだから。そう言う人もいると思う。確かにそうかもしれない。だけど僕はそれだけではないと思った。自分のせいでチームに迷惑をかけた。とにかく帰ったときにみんなを助ける。そう思って走り込んだのではないだろうかと。チームに戻った彼は考えられないくらい走れた。元々技術がある彼がさらにチームで1番走れるのだ。これはもう無敵状態だった。あいつにボールを渡せばなんとかなるんじゃないかと思った。

3年生が引退すると僕はキャプテンに選ばれ、なんと名将○○先生が4月からうちの高校に帰ってくるというのだ。この時はワクワクが止まらなかったのを覚えている。
先生が来てから僕たちが選手権を目指すまでは半年しかなかった。とにかく時間がなかった。先生は4月5月の最初の2ヶ月僕たちにドリブルしかさせなかった。どの練習も誰にもパスをしない、ドリブルに関連した練習だけだった。心配になったが、先生はまずボールキープできなければサッカーはできないと考える人だった。先生自体めちゃくちゃ足元のタッチ、ドリブル、キープが上手かった。僕も宮所も元々足元の技術はある方だった。そのスタイルががっつしハマってまた1つ上手くなった。そのあとはひたすら戦術と体力系の走り込みだった。先生は点を取られなければ負けない。走り負けなければ勝てる。これが先生の考えだった。先生自体FWの選手だったが、指導者としては守備を徹底させる方針だった。ひたすらLラインの守備。攻守切り替え。攻撃に関しては簡単な話、FW2人で点をとってしまえばいい。これだった。

選手権を前に最後の調整で阪南大学の2部と試合をした。3-2で勝った。2部と言えど格上だ。自信になった。帰りのバスで先生が「おいおまえら好きなジュース買えよ」たったのジュース1本だがたまらなく嬉しかったのを覚えている。

それから選手権(奈良大会)が始まると1回戦9-0、2回戦5-0、そしてベスト16対戦相手は富雄高校だった。どこが来ても勝てる自信しかなかった。試合内の事はまた気が向いたら書こう。結果0-1で負けた。点を取られなければ負けない。これをテーマにやってきたが1点を取られて負けた。攻撃にも自信があったがこの日はチャンスを掴めなかった。終わった後清々しかった。周りは泣いたが僕はみんなをまとめる役割があった。終わってから寮のベッドで1人泣きしたのを覚えている。もっと上まで行くと思っていた道のりを途中で諦めないといけない。これだからおもしろい、本気にもなった。この後富雄高校は決勝戦まで進んだ。僕たちのサッカーライフは終わった。

宮所直喜という男。
サッカーを通じて、時にライバルだったり、時に共に闘ったり、時に友達だったり、時に喧嘩もして、まぁ僕の青春の中には彼がいた。どうなると思っていた高校生活も思い返せば素晴らしい日々を送れた。先生にも出会い、新しい仲間とも出会った。ここでよかったと心から思える。感謝だ。
今は僕は芸人、彼は実家の創業今年で100年?になるyanagiya(ヤナギヤ)というくそでけぇパン、ケーキ、カフェが1つになってる店の若社長をしている。まぁこいつなら大丈夫だ。和歌山御坊に行った際は是非食べてほしい。めちゃくちゃうめぇ。僕も子が2人、宮所も子が3人。お互いに歳を経た。まぁしかし死ぬまで同じ感じなんやろな。

宮所の話だけしようと思ったが、気づけば半分サッカーの話になった。今でもとにかく会うとサッカーの話になる。他に何人も同じくらい紹介したい奴がいるがおいおいまた。

すいません長々と。
もっと詳しく書きたいけど、もうキリがないのでこのへんで。ほんで宮所(みやどころ)て珍しすぎるねん!!

ほならばまた。

#サッカー #フットボール#青春時代#部活の思い出

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