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なぜ歴史にはまったか③

 前回の最後に、僕が歴史にはまった原因を5つ挙げましたが、今回は2番目の理由について述べていきましょう。この部分も僕にとってはかなり大切です

・曽祖父の戦争体験

 僕の曽祖父は1923年の9月の生まれで、関東大震災の直後に生まれました。生まれは北海道の高島町で、これは1940年に小樽市に合併しましたから、小樽出身と言っていいでしょう。なので幸い、震災の被害は受けていません。亡くなったのは2003年の2月、僕の生まれは2003年3月ですから、僕はギリギリ曽祖父とは会えませんでした。しかし、曽祖父の死後時を置かずしてうまれた僕を、親戚は生まれ変わりだといったこともあります(笑)
 つまり僕は、曽祖父の口から直接戦争の話を聞いたのではありません。しかし、父がこの話をよく記憶していて、僕におしえてくれました。最初に教えてもらったのは小学校低学年くらいでしょうか。しかし、あまりに前のことで、どうしてこの話を教えてもらったのか、今では思い出せません。僕が望んで話を迫ったというわけではたぶんないと思います
 ところが僕は、聞いた当初からこの戦争体験の話に興味を持った(というか最初は衝撃だった)のは事実です。僕が衝撃だった部分を紹介しましょう
 

・軍艦が沈没、生死の境をさまよう


曽祖父は、1943年、つまり20歳で海軍の兵として横須賀での訓練ののちに出征しました。乗っていたのは「五十鈴」という軽巡洋艦でした。その後、フィリピンやインドネシア方面の戦いに参加することになります。そして、何より衝撃だったのは五十鈴が沈没した時の話。五十鈴は、1945年4月7日の朝、アメリカの潜水艦の魚雷により撃沈。場所はインドネシアのスンバワ島の北。(当時はオランダ領)


スンバワ島の位置

もちろん、僕の曽祖父もそこに居合わせたのは当然です
 ここで、現場にいた人しかわからない恐ろしさを曽祖父は語っています。洗面台にためた水を、栓を外して排水するところを思い浮かべてください。水は当然、排水口に向かっていきます。そして、最後の水が排水口に落ちるところをよ一くイメージしてください。このとき、周囲のものを巻き込んで排水口に落ちていくのがわかりますか。イメージできなかった人は、今度洗面台に水をため、ほこりでも置いて実験してみると良いでしょう。
 そして、軍艦が沈む時にも同じことが起こります。つまり、いつまでも軍艦と一緒にいると、軍艦が排水口の役割を果たし、周囲の物や人を一緒に海の底に引きずり込むのです。だから、海に飛び込むタイミングは早すぎても、遅すぎてもいけないのです。早すぎたら、今度は水圧が危ないでしょう。そんな中、軍艦に引き込まれないうちに逃げなければならないのです
 曽祖父はなんとか軍艦からは逃げ出したものの、海の上で8時間も漂流しました。その後救助船が来て助けられましたが、その8時間のことを思うと恐ろしくてなりません。結局、この沈没による犠牲者は最低でも190人余りで、正確な人数はわかっていません。そして、救助された人は450人といいます。(『戦史叢書』)その450人の中に僕の曽祖父はいたわけです。まさに生死の境をさまよったといえます。これはインドネシアで海水温も高くて助かったでしょうが、寒い海ならまず助からなかったでしょう。
 曽祖父は、まさか自分が生きて故郷にもどるとは思わなかった、と言ったそうです。戦時中、常に死と隣り合わせだったことが伝わります。本当はもっとこの話を書きたいのですが、長くなってしまうので、また今度機会を見つけて書きたいです。この記憶を風化させるわけにはいきません。

・先祖とのつながりを思う
 


そして僕は、

「ここでひいじいちゃんが死んでたら、今僕はここにいなんだな」ということに思いをはせました

つまり、このときから僕は、「先祖とのつながり」を意識するようになります。先祖たちが多くの危険をかいくぐって今の自分がいる。この思いは今でも変わりません。そして、自分まで血がつながってきたのは奇跡そのものだと思っています。
 このことは何も僕に限ったことではなく、みなさん誰もがそうです。親とか祖父母くらいまでだったらイメージしやすいと思いますが、実際はその先に数え切れない程の先祖がいるのです。なので、親や祖父母と関係が良くないという人は想像力を働かせてそれよりもっと過去の先祖の苦労を思ってみてはいかがでしょう。
 余談ですが、僕の父方の先祖は北海道に来る前は青森県や秋田県に住んでいました。歴史で、「天明の大飢饉」が江戸時代の1780年代に日本で猛威をふるったと習ったでしょう。その中でも、青森県や秋田県、岩手県といった東北北部は特に甚大な被害をうけ、中には人が人を食うといったまさに阿鼻叫喚の事態。そんな中を僕の先祖は生き抜いたのかと思うと自分がここにいるのが奇跡に思えてきます。
 

辛いときこそここまで命のバトンを伝えてくれた先祖のことを思う

 それが僕が今回一番伝えたいことです。
僕らの先祖は多くの飢饉や戦争を乗り越えてきたのです。だから、決して自分の命・健康を粗末にすることがあってはなりませんし、こうした気持ちを持てば他人の命をも大事にできるはず。

・最後に

この戦争体験のはなしを経て僕が得たものは
1、教科書にのってる出来事が起きているとき、自分の先祖はそのとき何をしてたのか?と気になり始めた
2.自分の先祖をもっとたどってみたいと思うようになった
1のような考えをもつと、歴史は「暗記」ものじゃなくなります、自分につながる問題になってくるでしょう。中には悲しいことも多くありますが、それでも命をつないできた先祖を思えば、今自分の目の前の困難を乗り越える勇気がでてきませんか?こうなれば、歴史は生きた学問になるでしょう。みなさんも、できれば生のファミリーヒストリーを聞くことをおすすめします。
 そして、2ですが、親戚の家に古い記録が残っていないか調べようと思っています。もし何かわかれば記事にしたいです。
次回は郷土史との出会いについて書きましょう、お楽しみに!

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