儒学と僕4 「学問と人とのつながり」

さて、今回は、前回取り上げた部分「学びて時に…」の続きです。そうはいっても、今回取り上げるところも依然として『論語』の第一章です。進行が遅いと思われるかもしれませんが、第一章は数ある『論語』の章の中で最も人目に触れやすいものなので、省略せずに取り上げます。

今回の言葉

朋、遠方より来る有り、亦た楽しからずや。
(有朋自遠方来、不亦楽乎。)

(とも、えんぽうよりきたるあり、またたのしからずや)

『論語』学而編第1章

余談ですが、原文を見て思うのは、明治~大正期にかけて活躍した政治家・軍人の山縣有朋の名前の由来は多分ここですね。彼は『論語』を読んで何を思ったのでしょうか。
さて、前回取り上げた「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」は、繰り返し学び、知識を自分の行動と一体化させる大切さを教えてくれる言葉だ、と述べました。
今回は、その続きにくる文章ですから、

「繰り返し学んで自分の行動・人格を磨いたなら、それを慕って遠くから自分と志を同じくするものがやってくるようになるだろう。それはなんと楽しいことではないか」

というのが主な意味となります。また、朱子が著した『論語』の注釈である『論語集注』には、思想的に朱子に影響を与えた中国北宋時代の学者である程伊川(1033~1107)の説が紹介されています。それは、上に挙げた意味と似ていますが、

「善を以て人に及ぼせば、信じ従う者衆(おお)し。故に楽しむべし」

というものですが、これも前回の「学びて時に…」の部分で、朱子の説が、「繰り返し学び、心を本来の状態(=善)に復帰させる」と考えていたことを思い出せば理解できます。つまり、そのようにして自己の心を善にすれば、その善に周囲の人々が感化されていき、自分と行動を共にしてくれる人が増える。それは楽しいことだ、というわけですね。

大学に来てからの出会い

僕たちは、何かを学ぶということ自体であれば、小学校のうちから行っていますが、高校までは、近くに住んでいるから同じ場所で学ぶという場合が多いと思います。何か専門性の高い学校に行っている場合は別として、自分がやりたい勉強に専念することも基本的にないでしょう。

しかし、僕自身の経験をふまえると、大学では状況が一変しました。
高校まで一緒に学んでいた人や、近所に住んでいた友達と連絡をとることすらほとんどなくなりました。
そのかわり、大学で知り合った友達は、今まで自分と縁がなかった土地の人が多いです。

そして、大学は高校までと違い、自分がやりたい勉強に専念できます。これは喜ばしいことです。それは、自分自身が楽しいというだけではなく、

「自分と同じようにやりたい勉強に専念している人に出会える」

という喜びのほうが大きいかもしれません。自分とまったく同じ研究をしている人にはなかなか出会いませんが、自分と同じ興味・関心を持っている人には出会います。思えば、その友達も僕も、高校までは全く違う場所で勉強をしていました。それが今、同じ大学で、同じことに興味をもって勉強し、そのことについて語り合ったりする。僕自身、自分の勉強を続けてきてよかったと思います。
世の中、「ご縁」という言葉があったり、「神様が出会わせてくれた」という言い方がされることがあると思いますが、本来遠くの場所にいた人が同じ志のもとに出会ったとき、僕はこうしたことを感じずにはいられません。

朱子の注にあるように、人格で人を感化するようなレベルには僕は達していないですが、この先も自分の勉強に専念し、一人でも多くの同志に出会いたいものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?