湧き上がる

旅先で友人と夜の街を彷徨っていた所、突如背後から甲高く、人工甘味料を思わせる甘ったるい声が飛んできた。振り返ると、その声の持ち主は、長い黒髪をツインテールにした、痛々しい程華奢な女の子だった。
声をかけられると同時に何故か、袋に入った安っぽいクリームパンを渡された。
彼女は異様な程に陽気だったが、瞳が明後日の方を見ている。ここにいるけど、魂はここにはない。そんな感じであった。女の子は、けらけらと乾いた笑い声を上げていた。
危機感を覚えたらしい敏感な小動物のような友人は、私の手をきつく握りながら、
「ねえこの子、変だよ。逃げようよ」
と密やかに私に耳打ちした。しかし私は友人の言葉をさらりと流し、
「ひゃっほ!何かやってる?」
などと女の子と同じくらい人工的な声を作って彼女に話しかけた。
「えっとね、お酒と×××。あのね、人から勧められるままに、初めて入れてみたの」
×××は私も一度興味本位で試したか、全く良くは無かった。体質に合わなかったか、粗悪な品を掴まされた影響か、ただ泥の中にずぶずぶと沈み込むように、眠くなっただけだ。
「ちょっとちょっと、あれは非合法の薬物ではないけどお酒とダブルでやっちゃだめだって。危険だぞ〜」
でもまあ、生死に関わるようなものではない。よってさしたる問題無いだろうと判断し、私はあくまで軽い調子で、突っ込みを入れた。
女の子はその場で座り込んで、目を白黒させていた。その様が面白くて、ちょっと笑いそうになってしまったのと同時に、私はその子のことがすっかり好きになってしまった。
「ね、実は私旅行に来てて、今日はホテルに宿泊する予定なんだ。良かったら一緒に来ない?」
友人はいつの間にか、姿を消していた。私の軽率な行動に嫌気が差したのかもしれない。
「ええ、いいんれすか〜?」
女の子はもう完全に、呂律が回っていなかった。
「問題ないよ。君なんだか危なっかしいし」
私は名前も知らない女の子を、自分が宿泊しているホテルに招き入れると、彼女は床に丸まって眠ってしまった。
「こらこら、ベッドで眠りなさいよ」
そう言って彼女の小さい頭を撫でた瞬間、彼女は顔を蒼白にして、トイレに駆け込んた。
恐らく嘔吐しているのだろう。
私は冷たいミネラルウォータを口に含み、喉に流し込みながらベットの上でテレビのバラエティ番組を慢性と眺めた。若手の芸人や、女性タレントが、けらけらと笑い声を上げている。
彼女がくれたクリームパンを口に含むと、彼女自身を硬い歯で咀嚼し、喉に入れ、消化吸収しているような錯覚に陥り、猥雑な感情に襲われた。
ふらつきながらトイレから戻ってきた彼女は、涙を零していた。
私はその子のことは何も知らなかったが、その瞬間、彼女を愛おしい、と感じた。
「寒いから、布団に入んなよ」
「でも私、汚いよ」
彼女の瞳には怯えや羞恥や苦痛や安堵や、その他様々な色が混じっていて、それらが雪崩込んできた私の中にも様々な色彩が渦巻き、胸がはち切れそうになった。そして彼女を傷付けた世界を、激しく憎悪した。
「いいからいいから」
軽い調子でそう伝えると、彼女はするり、と子猫のように私のベッドに潜り込んできた。
「あったかい」
彼女は丸い目を細めながら、実に寂しそうに、でも嬉しそうに笑った。
お風呂に入っていない彼女の身体と口からは、それぞれ独立した酸っぱい匂いがしたが、全く気にはならなかった。
私はがたがた震える彼女を抱きしめながら、眠った。
そして夢を見た。
彼女の薄い背中に翼が生えていて、それが見えない無数の手に無慈悲に引き千切られるという夢だ。
彼女は泣き叫んでいたが、無数の薄汚れた手は容赦なく彼女に襲い掛かかる。彼女の羽は引き千切られ、最終的には手も足も、ぷちん、と音を立てて千切れてしまった。
私はどうすることもできず、ただ呆然と、それを眺めていることしかできなかった。
私が意識を取り戻すと、もう女の子の姿は無かった。
私はあの子の羽が千切られず、空高く舞い上がっていったことを夢想し、泥のような微睡みの中に再び吸い込まれていった。

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