「あなたのその、虐げられてきた者特有の目が厭でしょうがないのよ」

私の飼い主が、錯乱し、腰まである乱れた、しかし艶のある髪を振り乱して甲高い叫び声を上げました。
以前は私の頭を優しく撫でて、良い子ね、等と甘く囁やき、可愛がってくれていた日々もあったというのに‥‥。
今となっては自室の壁に、小さく可憐な頭を打ち付けては、私に対する非難の言葉を投げかけてくるのです。

「最近ね、あなたを見ていると、嫌悪感の塊が喉の奥からせり上がってきて、嘔吐しそうになる事があるの。昨日なんてね、この部屋にある、アンティークの人形を吐き出す悪夢を見たのよ。ああ、気味が悪い」

飼い主は白い顔を更に蒼白にして、額に玉のような汗を滲ませております。
実際の所、飼い主がここの所特に心の調子を崩している事は明白なのでした。

精神的に不安定で、豪奢な屋敷の一室に幽閉されている飼い主を不憫に思ったらしい両親が与えたのは、私という灰色の羽のようなものが生えた、生きた玩具だったのです。

私は異様な姿をしていた為か幼少期に捨てられ、見世物小屋の主人に拾われ、裸にされ、晒し者にされ、好奇の視線を浴び、鞭打たれ、屈辱的な日々を送っておりました。
そんな私を高額で買い取って下さったのが、飼い主に良く似た端正な顔立ちの、裕福な彼女の父親だったのです‥‥。

そうそう、言い忘れていていたのですが、飼い主は絵描きです。彼女の部屋の壁は、彼女が生み出した作品で埋め尽くされております。
そして、彼女は艶のある長い黒髪を腰の下まで伸ばし、体内から発光しているような白い肌をしており、憂いを含んだ切れ長の一重瞼を持ち、大変美しいのですが、それ故に感情を昂らせ、表情を歪めると恐ろしい。
しかし、だからこそ、愛おしい。
だって、ただ美しいだけのものなんて、趣が無いというか、つまらないじゃないですか。

私は飼い主の麗しい姿を初めて目の当たりにした瞬間、戦慄し、この世のものとは思えない程美しいこの女性に、忠誠を貫く事を誓いました。

飼い主は鬼の形相をして、私の人間としては不完全な‥‥いえ、そもそも人間ではないのかもしれませんが‥‥肉体を、小さな白い掌でパチンと何度も叩きました。
見世物小屋の主人の鞭から与えられるのは苦痛と恥辱ですが、飼い主から受ける虐待は甘い餌です。
ふふ、謂わば私は、飼い主の与える甘美な毒のみ啜り、生きる、飛べない羽を持つ昆虫のようなものです。

「あなたを見ていると、どんどん絵のアイデアが湧き上がってくるのよ。ねえ、ずっとずっと、私の傍らにいて頂戴ね」

以前はそう言って、私の肩甲骨の付近からにょっきり生えている、薄汚れた羽のようなものを目を細めながら優しく撫でてくれた日々も、確かに存在したというのに。

「やっぱり駄目よ!」

錯乱した飼い主は、突如部屋の片隅に飾られていた私の模写の一つを破り捨てました。そして、はあはあと息を荒げながら、桃色の寝具に悠々と身を横たえました。

「ねえ、いつものあれをやって欲しいわ」

私は飼い主に命じられたまま、まずは彼女の小さく愛らしい足の先にある指の一つ一つに丹念に舌を這わせ、日光に晒されないが故病的なまでに白い太もも、そしてその付け根をいつもの手順で、丁寧に舐めました。
突如飼い主は身体を震わせて、私を蹴りました。
そして私の髪の毛を引っ張り、ぷちぷちと音を立てて引き抜きました。
私は痛みに目に涙を溜めながらも、必死に飼い主の陶器のような滑らかな肌を丹念に舐めました。

「ねえ、その羽、引き千切っていいかしら?」

飼い主は遠くを見るような潤んだ瞳をして私にそう問いました。
私は、素直に頷きました。ええ、拒否するという選択肢は、私には存在しません。今までだって、そうだったのですから。
飼い主は紅を引かずとも赤い唇に薄っすらと微笑を浮かべ、箪笥に隠し持っていた包丁を取り出し、私の右の羽を千切るような素振りを見せました。
私は覚悟を決め、一つ深呼吸をして目を閉じ、暗黒の世界に逃げ込みました。
次の瞬間、激痛が、全身を貫きました。
私は床の上にうつ伏せになって、飼い主の眼前で、断続的な呻きを漏らしました。

「私はあなたのもの、あなたは私のもの」

うわ言のように繰り返す飼い主はやはり美しいのですが、まるで幽霊のように存在が希薄でした。そう、今にも消えてしまいそうな。
ふいに飼い主が視線を外したのでその先を見やると、窓の外には見る者全てが恐れを抱く程に黄金色に光る満月がありました。

「あのヒトが私を汚したのも、こんな風に月の美しい夜だった」

私はじっと、彼女を見据えました。しかし、飼い主は月を眺めるのに夢中のようで、私の瞳の色なんぞ覗いてはくれません。 
そして、聞き取れない程に小さくか細い声を震わせながら、独り言のようなものを漏らしました。

「あのヒトは使用人だった。とっても優しいヒトだった。でもある日、豹変して、私に襲い掛かってきたの。肉体も、心も、引き裂かれるみたいだった。私はあんな事がこの世に存在することすら知らなかったのよ。それから何度も、あのヒトは私を蹂躙した挙げ句、あっさり行方をくらましてしまったの。勿論母には相談したわ。でも、そんな話はするな、恥だからと逆に叱責されて、終わり。気付いたら、色々な事が分からなくなっていたし、逆に色んなものが見えるようになってきたのよ。それからね、父から外に出るなと命じられ、軟禁されたのは。うふふ、滑稽よね」

飼い主は私の背中の傷跡にゆっくり細く白い指を這わせました。私は苦痛に仰け反ります。

「私は今まで散々玩具にされて、色んな感情を無視されてきたの。だから、私だって誰かを‥‥何かを弄んでも良い筈よ。違う?」

彼女はけたたましく笑い声を上げます。こんなに楽しそうに笑う彼女を見るのは初めての事で、私は愉悦を覚えました。
突如、飼い主の両親が、 部屋に入り込んできました。

「ああ、何てことになってしまってたの」

「やっぱり然るべき治療を受けさせるべきだな」

「娘が傷物にされて狂ってしまったなんて、親族にも隠していたかったけど、難しいわね。あんなに綺麗で聡明だった娘がこんな風になってしまったなんて‥‥不憫だわ」

彼女の母親は、目に涙を溜めて身体を震わせておりました。父親は、憐れむような目をして飼い主を一瞥します。
玩具とはいえ、生きているモノの身体の一部を切り取ったのです。
飼い主の両親の反応は、当然でしょう。
もしや、ああ、彼女はどこか遠くに連れて行かれてしまうのでしょうか。
彼女なしに、私はどう生きれば良いというのでしょうか。私は身を焼かれるような苦痛を覚えました。

「あの絵は何だ?気味が悪い。火に焼かれる片翼の天使のなりそこないか?」

私を飼い主に与えた張本人である、彼女の父親がそう呟きました。

「本当に不気味な絵よね。そういえば、最近食事を持って行く度に、羽の生えたあの子が、あの子が、騒いでたのよ。そんなもの存在しないのに」

飼い主の母親が涙を溢しながら叫びました。
一体彼らは何を言っているのでしょうか。私は確かに、ここに存在するというのに。
次の瞬間、私はふわりと、身体が宙に浮き上がるのを感じました。
そして気付くと、私は彼女の絵の中にいる自分を発見しました。
私はごうごう、と燃える炎の中におりました。
飼い主の狂気を帯びた視線に見据えられた瞬間、私は彼女の望みを悟り、炎に包まれた手を彼女の母親に伸ばしました。
ひいっと声を上げた飼い主の母親の身体は瞬く間に燃え上がり、火の粉は父親にも移りました。
そして私は彼らを両手でずるずる、と絵の中に引き摺り込みました。
飼い主ははこちらを見て、微笑しました。

「ありがとう。父も母もあなたも絵の中にずっといてくれたら、寂しくないわ。私は真の意味ではずっと、一人ぼっちだったから」

私は彼女の抱え込んだ漆黒を想い、泣きながら彼女に向かって手を伸ばしました。
しかし、彼女は細い首を横に振り、泣き笑いの表情を浮かべます。

「私、探さなければならないヒトがいるの。そのヒトを見付けたら、それから、そちらに向かう。だから、それまでは、そこで待っていて頂戴ね」

飼い主が自身を汚し、玩具にした人間を探し出すのを待ちなから、私達はずっと絵の中で、業火に焼かれ続けております。

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