無門関第三十一則「趙州勘婆」

 無門関第三十一則「趙州勘婆」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 テレビ朝日系の名物企画番組のひとつに、「格付けチェック」というものがあります。
 もともとは、「人気者でいこう」という番組のコーナーのひとつだったのですが、ことさら人気が出てしまったので、独立させたのでしょう。
 高級なものとそうでないもの、プロと素人、こういう二者を並べて、どちらが高級なほうなのかを出演者にあてさせる、という企画です。
 無事当てれば、なんと物を見る眼の備わった御仁かと褒め称え、外せば笑う。企画の仕組み自体はシンプルでわかりやすいものなのですが。

 私、常々思うのですよ。
 本当に、そこまでのはっきりした差が、あるのか? と。

 例えば、「プロの撮った映像作品」VS「素人の撮った映像作品」なんていう問題。
 あるいは「ベテランのプロの歌」VS「音大の学生の歌」とか。
 プロと素人だよ? 全然違うでしょう? などと煽られるわけですけど。
 実際に比べさせると、なかなか見分け聞き分けるのが難しかったりする。

 で、こういうとき、外すと大抵は「あんたたち、全然見る目がないね」という文脈で解釈されることになるし、実際かなりの差がそこに存在することの方が多いんですけど、時々不思議に思うことがあるんです。
「どうして誰も、『この素人さん側が、既に玄人レベルのすごい人だった』『事実上、プロ対プロだった』と、言わないんだろう?」と。
 たまにそういうケースがあるんです。
 少なくとも、私の目にはそんなふうに見えるケースがある。
 あるいは、「事実上、アマチュア対アマチュアだった」というケースもあったりします。

 味覚の問題もね。
「高級牛肉VSスーパーのお肉」という問題、以前はよくあったんですけど。
 スーパーのお肉、写真は特売レベルの安そうな物を出してきますけどね、あのグラム単価、よくよく注意して見たら、100g680円とか書かれてたりして、スーパーの中ではそこそこ高級肉の部類だったりします。
 要するに、「すげぇ高級肉」と「まあまあ高級肉」の対決です。
 事実上どっちも高級肉。詐欺だろあの安そうな写真。

 さすがにストラディバリウスの音色は別格だなと聴く度に思いますけど。
 でも、ヤマハがアレに比べてポンコツかというと、そんなことはないです。ヤマハはヤマハで一流。

 見抜けない側が未熟なのか。
 見抜くことが出来るほどの差がそこに存在していないのか。
 どちらか一方だけということは、実はそんなに多くはないのではないかと、私は思うわけです。


 今回の公案で、まず、一人の僧が、茶店の婆さんにやり込められます。
 その話を聞いた趙州、わしがババアの化けの皮を剥がしてやると、その婆さんの元を訪れます。
 そして、先程の僧侶と同じように問い、同じように行動して、婆さんが同じ答え方をしたのをみて、「あのババアを見破った」と言う。
 そういう話です。

 とりあえず、ババアが仕掛けた問答それ自体は、私はあんまりそそられないので、ここでは割愛します。
 内容には多少見所もあるのかもしれませんけどね、そこを差し引いても、あんなの、折り紙のだまし船みたいなもんでしょ。
 だまし船できゃっきゃ喜べるの、子供だけですよ。

 というわけで、一連の出来事を趙州視点で考えると、この婆さんは上っ面でしか物を見てない、駆け出しの僧侶も、大悟して久しい趙州も、同じように、しかも全然大したことがないようにしか見えていない、ということになるでしょうか。
 わしは、同じ答え方をした庵主に対して、同じ対応はしなかったもん、なんていう思いもあるのかも知れません。
 まあ、その通りだったのだろうとも思います。
 この婆さんは、僧侶と見りゃ、なんとかのひとつ覚えで、この問答を繰り出して、僧侶をまごまごさせては悦に入ってたんでしょう。
 よくいるよねこういう人。

 でも。
 一見、この老婆が実は全然見る目がなくて、みんなに機械的に同じことを言ってる、と見えるシーンですけど、実際のところ、どうだったのか?

 心というのは形があるわけではないので、結局のところ、言動や行動から見るしかないはずなんですが、その言動や行動を同じように揃えられたら、その奥の心も同じように見えても、ある程度は仕方ないです。
 その点では、趙州はちょっと大人げないと言えなくもない。
 日本のプロが、同じ分野の海外の二流のプロに、素性を隠して教えを請い、海外のプロが調子に乗りきったところで種明かし、という企画のテレビ番組があるんですけど、なんとまあ底意地の悪い企画だなと思いますよ。
 日本に招いて教えてもてなして帰すんじゃなくて、乗り込んでいって無駄に赤っ恥かかせて楽しむんだもん。

 でも、「ほぼ実力通りのセミプロである僧侶」+「実力を隠したプロである趙州」VS「そうとは知らぬ素人の婆さん」の構図とはいえ、本質は、しっかり点検しないとわかんないとこもあるよなあ、とも思うんですよね。

 同じような経典を学んで同じような境地を目指す者たちの中に、同じ何かが見えたことが、そんなにダメなことなのか。
 同じものが見えたと感じたとき、同じ対応をすることが、そんなにダメなことなのか。

 自分よりも下だと思っていた誰かと同じレベルの扱いをされたとき、それが非であるというのなら、その扱いをした側だけに非があるのか。
 そもそも、本当に「同じ対応」だったのか。

 見抜けない側が未熟なのか。
 見抜くことが出来るほどの差がそこに存在していないのか。

 趙州は「婆さんのことを、見抜いてやったよ」とだけ言います。
 どのように見抜いたのかまでは説明しません。
 これを聞いた弟子達は「婆さんはやっぱり大したことなかったんだ」と解釈して溜飲を下げたでしょう。
 私も、この婆さんはあんまり好きじゃないです。
 でも、本当のところは、どうだったんでしょうか?
 趙州は、「どのように」この婆さんを見抜いたんでしょうか。

 プロ VS 素人。セミプロ VS プロ。
 本当にそうだったのか。
「事実上同レベルの対決」だったものは本当にひとつもなかったのか。

「知ったかぶりの半可通は困るねぇ」などと言う前に、考えることは僧侶側にも少しはあるんじゃないかという気もするんですよね。

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