無門関第三則「倶胝豎指」

 倶胝豎指に関して、いろいろ綴ります。
 公案の現代語訳については、前回をご覧ください。

 今回、倶胝の「一指頭の禅」の核心について、独自の見解を綴ってます。
 あくまでも私の推測に過ぎませんが、それでも、もしかしたら、これを読んだら「一指頭の禅」を実際にあなたが受けた場合、その効果が著しく損なわれる可能性があります。
 なので、それが嫌だと思う方は、ここで読むのをやめてください。
 それでもいいという方だけ、お読みください。
 私としては、読んで頂けたら、やはり嬉しいです。



 結局のところ、この公案を解りにくくしているのは、「一指頭の禅って、要するに、一体何なの」という部分なのではないかと感じています。
 問答を挑んできた相手に、倶胝は決まって指を一本立てて見せたという。
 これでどうして、禅の法の要を伝えることができるのか。

 これは、公案の文章の字面だけ眺めていても、決して解らないことなんじゃないかと思ったので、出来る限り生々しく想像してみました。
 最終的に、自分の右手の人差し指を数十秒眺めていたら、いきなりバアッと思いつきました。何か本当に不思議です。


 倶胝のところに、日々いろんな人が訪れます。
 素直に教えを請いに来る人もいれば、やり込めてやろうとする底意地の悪い人もいたり、様々です。
 彼らは様々に、倶胝に対して質問を投げかけます。そうして、倶胝から何らかの反応を得ようとします。

 倶胝はおそらく、ただ黙って聞いているのでしょう。
 なので、参禅者は、何を話しかけても平然と黙っている倶胝をみているうち、みな一様に、訝しむような気分になっていくと思うのです。
 きっと何か素晴らしいものが得られると思って参禅したのに、目の前のお坊さんは何も言わない。何も教えてくれない。それまでの期待感が、少しずつ不安や失望や疑念に変わっていく。心は千々に乱れ始めます。

 もちろん、そうなるまでの、感情の推移や、時間は、人によって違うでしょう。
 でも、いずれはそうなる瞬間が、きっと訪れる。
 で、倶胝は、もしかしたら、そのタイミングを見定めて、黙ってスッと指を一本立てたのではなかろうか、と、私は思ったのです。

 その、一本の指を見た瞬間、参禅者は皆、虚を突かれたような思いがするだろうと思うのです。
 その一瞬。長くて数瞬。そのわずかな時間、虚を突かれたあまり、参禅者の思考が多分すべて止まってしまって、頭の中の何もかもが空っぽのような状態になる。多分、なると思うんです。

 この状態こそが、もしかしたら、禅の言うところの、「無の境地」に近いものなのではないかと、私は思っているのです。
 だから、倶胝はこの、一指頭の禅を使い続けたのだろうと。
 無の境地とはいったいどういうものなのかを、実際に体験してもらうのに、最も手っ取り早く、それでいて、非常に効果的な方法だったんじゃないでしょうか。

 ただ、このやり方を成功させるためには、ただ指を立てればいいというものではなくて、それに至るまでのプロセスがとても重要なんだろうとも思うのです。
 指を立てるというのは、「一指頭の禅」のプロセスの最終段階であって、その土台となる様々な条件がきちんと揃っていないと、その真価は多分発揮されない。
 その条件が揃ったかどうかを見定めるのは、そんなに簡単なことではないはずなんです。

 さて。
 倶胝が指を一本立てるところをずっと傍で見てきた小僧が、倶胝の居ないところで参禅者を相手に、指を一本立てて見せました。
「和尚は、どんな仏法の要を伝えてくれるの?」と尋ねられた小僧が、「和尚さまはいつもこんなふうにしてる」と真似て見せた、という流れです。

 しかし。
 先程述べた、倶胝の一指頭の禅の全貌と、この小僧の「和尚さんは、何か知らないけどいつもこうしてるよ」という感じで指を立てるのでは、指を一本立てる姿こそ同じように見えるかもしれませんが、その中身は全くの別物です。
 さらに、倶胝の一指頭の禅は、「参禅者の虚を突く」ということが非常に重要な要素であると思われるので、事前にネタバレをされてしまうと、その効果は著しく低くなってしまいます。
 つまり、この参禅者は、もはや一指頭の禅では、無の境地を感じることが、非常に難しくなってしまったということになります。
 これを読んだあなたも、多分そうなりました。ほんとに済みません。
 なので、この小僧がやったことは、小僧本人が認識している以上に、極めて大きな損害を参禅者に与えた行為なのです。

 だからというわけでもないのかもしれませんが、倶胝は小僧の指を切り落としました。
 普通に考えたら、「ちょっと真似しただけでその指を切り落とすのか」と、可哀相な気持ちにもなるのですが、参禅者が無の境地を垣間見るチャンスを台無しにしたというのは、倶胝にとっては許しがたい重罪だったのかも知れません。

 で、小僧はというと、指を切り落とされた痛みで泣きわめきます。
 このとき、おそらく小僧は、「自分はそこまで悪いことはしてない」くらいの感覚でいたのでしょう。だからこそ、堪えもせずにわあわあ泣きわめいて、その場から逃げだそうとしたのです。
 指の痛みと、どうして和尚さんはこんな酷い罰を自分に与えるのだろうというショックとで、その心は千々に乱れていたでしょう。
 倶胝に対する疑念や不信感、悲しみや憎しみ、そういった様々な負の感情が心の中に芽生えたことは想像に難くありません。

 しかし。
 この様子を見ていた倶胝は、多分思ったのだろうと思うのです。
 この小僧の様子が、多くの参禅者の、最終段階の手前の状態に極めて近いものであると。

 だから、倶胝は呼び止めて、指を一本立てて見せた。

 一方、これを見た小僧は。
 多くの参禅者が、倶胝の立てた指を見て一瞬無の境地に至ったのと同様、小僧もまた、その境地に至ったのでしょう。
 虚を突かれ、それまでの倶胝に対する様々な感情が一瞬頭から全て消え去り、もしかしたら指の痛みさえも忘れ、倶胝の指に見入った。
 その瞬間、無の境地とはどのようなものか、それをもたらしてくれた倶胝の一指頭の禅とはどのようなものだったのか、そして、指を立てる姿を安易に真似した自分が、実はどんなことをしでかしていたのか、それらの全てを、いちどきに理解したのではないかと思うのです。

 そうして、小僧もまた、悟りに至ったのでしょう。

 というわけで、一指頭の禅というのは、ただ、指を立ててみせるというだけのことではない、ということです。
 何も、倶胝の指から何か得体の知れない光線が出ていて、それに参禅者がやられて無の境地に至る、などということでは、多分ないです。
 指を立てるまでのプロセスが大切なのであって、だから、何なら別に、指でなくても、何でもいいんだと思うんですよね。

 もし、一指頭の禅のことを「指を立ててみせればいいもの」とだけ思っている人が、指を切り落とされてしまったら、その人はもう二度と一指頭の禅は使えなくなってしまうでしょう。
 しかし、倶胝が指を切り落とされてしまったとしても、倶胝はきっと別の一指頭の禅を用いて禅の法の要を伝え続けることが出来るでしょう。
 おそらくは、悟った後の小僧もまた、それが出来るでしょうね。

 まあそれにしても、「別に指じゃなくても何とかなるんなら、小僧の指、切り落とすのは勘弁してやってもよかったんじゃないの」とは、やっぱり思ってしまいます。
 最終的に小僧が悟ったから、終わり良ければ全てよしみたいになってますけど、天竜和尚から得た一指頭の禅の真価を心底信じていたならば、倶胝はそこまでのことはせずに済んだんじゃないのという気も、少ししてしまう。
 それが、頌で書かれていることなんじゃないのかなあと、私は感じています。

 ところで、私が今回いろいろ綴りながら思ったことは、「公案について、他人の出した答えを丸パクリすることほど、つまらんことはない」ということだったりします。
 江戸時代辺りにはそういうのが流行して、「公案虎の巻」みたいなものが飛ぶように売れたそうですが。
 自分の答えが偶々他人のそれと似るとか、一度自分で咀嚼して自分の言葉で置換えて語るとかなら、いいと思うんですけど、まるぱくりは意味ない。それこそ、「指を切り落とされたら一指頭の禅が使えなくなる」みたいなことになってしまうでしょう。そんなのつまらないじゃないですか。

 どれだけアホみたいな答えでも、自分でもがいて得ることに意味がある。
 無門がこの公案を、こんなに早い段階で出してくるのは、一つはこれを解ってもらうためではないのかなあと、勝手に思ったりもしています。

 だから、こういう風に、公案についていろいろ記して、不特定多数の目に触れる可能性がある場所に置くのも、本当は良くないのかも知れませんが、まあ、私ごときが綴った内容が一つ増えたところで、別に構いやしないでしょう…。

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