夢一夜

 こんな、夢を見た。
 夏目漱石のパクりとか言って怒らないで下さい。
 見たんだからしょうがないんだもん。でもごめんなさい。


 長い間つきあっていた恋人との結婚がようやく実現に至った。
 つきあい初めの頃の情熱は少しずつ薄れていき、何度も起こった諍いにも疲れ始めていた、そんな頃だったけれど、それでもプロポーズは、それまでの辛さがすべて消えてしまうほど嬉しかった。

 父に報告をした。
 低く唸ったなり、あまり良い反応を示さない父に、私は、彼の良さと、私が今どれほど幸せを感じているかを訴えた。
 父は何も言わないまま、それでも私の決断を許してくれた。

 式は挙げなかった。入籍し、すぐに新生活を始めた。
 夫と妻という関係になり、私は夫の友人や知人に紹介されるようになった。
 ただ互いの気持ちさえあれば他は何も要らなかった恋人の頃は、夫がこれほど広い人脈を持っていることなど、全く知らなかった。
 彼らから「奥さん」と呼びかけられるたびに、結婚した実感が湧いた。そんな彼らとの会話を鷹揚に楽しむ夫の姿を見ながら、少しずつ、恋人から夫婦に変わっていくのだと感じた。それはやはり喜びに違いなかった。しかし、喜びを感じながらも、引き合わされる彼らがどういうわけか皆、「女遊びの止まない男と、それを黙認する女」という関係ばかりだったのが、少しだけ気にかかった。

 ある日の夕方だった。
 新居の呼び鈴が鳴った。
 夫は仕事からまだ帰ってきていない。来客の予定があるとは聞いていなかった。
 誰だろうと思いながら出迎えたら、夫の知人が数人、笑顔で入ってきた。
 年嵩の男性二人に、若い女性が数人。
 その中に、彼がいた。
 彼は、最後に玄関の中に入ってきた。そして、靴を脱ぐ前に、真っ直ぐ私を見て「この度は、おめでとうございます」と、言った。

 思わず、涙がこぼれた。
 初めて他人から貰った、祝いの言葉だった。

「ええー。どうして泣いてるの? どうしたの?」
「そりゃあ、嬉しいからに決まっとるやろう、なぁ奥さん」
「そうですね。本当は、幸せになってはいけなかったので」
 明るい口調のまま私の口からこぼれ出てしまった言葉に、彼らが、笑顔のまま、少しだけ困惑するのがわかった。

 私たちは、元々、不倫の関係だった。

「そんなことないだろ」
 俯き靴を脱ぎながら、彼が、小さな声で、ぽつりと言った。
 彼らの表情の硬さがほぐれた。ほっとした空気が流れ、私は彼らをリビングに通した。


 取り急ぎコーヒーを人数分淹れ、急いで食事の用意に取りかかろうとした。
 そんな私に彼女たちは「お構いなく」と朗らかに言ったなり、思い思いにくつろぎ始め、男性が「急に来てすまんなあ。何か適当にとろうや。奥さんゆっくりしてて」と、ポケットからスマホを取り出しどこかに電話をかけた。
 彼は、リビングにあぐらをかき、黙ったまま、そんな光景を見るともなしに眺めていた。

 届いたケータリングの料理をテーブルに並べ、しばらく談笑していたが、夫は帰ってこなかった。連絡もない。
 夫の仕事は勤務時間が不規則なので、帰宅時間が深夜になることは珍しいことではなかったが、来客を待たせ続けることには気が咎めた。
 私はあまり社交的ではない。しかし、口べたでホスト役も巧くこなせない私を巧く交えて、男性が速射砲のように喋り続け、連れの女性たちを笑わせ続けて、賑やかな時間が過ぎた。
 彼は、それを、ニコニコ笑って眺めていた。

 昔、私が初めて彼のことを知ったとき、彼はすでに大人の男だった。
 優しそうで、でも、どこか怖い。仕事は一流。けれど仕事を離れたらシャイで無口。
 多少の修羅場なら難無く切り抜けるだろう胆力と、どこか子供のような澄んだ目を持っていた彼の周りには、常に、大人の女性の匂いがあった。
 彼の何を知っていたわけでもなかったけれど、私のような小娘など歯牙にもかけないだろうことだけは、最初から解っていた。
 眺め、憧れるだけの人だった。

 結局、深夜になっても、夫は帰ってこなかった。
 彼らは、夫に会うことを諦め、それぞれにタクシーを呼び、帰宅していった。
 最後に、彼が残った。

 彼は、リビングの窓から裸足で庭に出て、そこに腰を下ろした。
 そして、私を呼ぶでもなく、遠ざけるでもなく、ただ、夜空を見上げていた。
 一通り片付けを済ませた私は、そっと、彼の隣に座った。
 星ひとつない夜だった。

「まあ、いろいろあるだろけど」
 ぽつりと、彼の声がした。
「あっという間だよ」
 喜びも。
 悲しみも。

「男運が悪いなんて、バカな女の証拠ですよね」
「バカを承知で生きる女の優しさに、オレら男がどれだけ救われてるか」

 夜空を見上げながら、彼が言った。
「どうしても、耐えられなくなったらさ、オレを呼びなよ。
 そしたらさ、あんたのこと、さらったげるよ」

 それは、情欲の欠片もない、慈愛に満ちた声だった。

 私は、夜空を見上げた。
「ありがとう」
 この日、いちばん、明るい声が出た。
 隣で、彼が微笑む気配がした。


 この日を最後に、彼とは会っていない。
 私は今日も、「今夜は遅くなると思うから」と言いながら出勤する夫の背中を、微笑みながら送り出している。

(了)


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