無門関第九則「大通智勝」②
無門関第九則「大通智勝」について綴ります。
今回は、主に、評唱と頌について。
公案の現代語訳はこちらです。
誰かすごい人の考えを目にして、それを理解することまでは、その気になればそれほど難しいことではありません。
けれど、誰か素晴らしい人の考えを知った上で、その人のように行動できるようになるのは、案外難しいことです。
例えば、釈迦。ナイチンゲール。マザーテレサ。
助けを求めている人に尽くした彼らのことを、多くの人は、素晴らしいと思うだろうと思います。
でも、「じゃあいきなり、ああなれるか?」というと、多くの人が、「いやあ、そこまでは、ちょっと」と、怯んでしまうだろうと思うのです。
でも、例えば、「電車で、自分より具合の悪そうな人がいたら、席を譲る」くらいの感じなら、どうでしょう。
「それなら、できそう」と、多くの人が思うでしょう。
他にも、いろんな例があると思います。
遠い目標はすぐには実現できなくても、身近にある目標を実現することはできます。
こういう、身近で、ありふれたことは、一見、特別に素晴らしいことのようには見えません。
そして、こういうことを教え、実践する人のことも、特別素晴らしい人のようには、見えないかも知れません。
けれど、そうじゃないんですね。
「その程度のことしか出来ない」凡人の場合もあれば、「あえて、その大切さを、身をもって伝えている」傑物の場合もある。
「千里の道も一歩から」とはよく言われるんですけど、千里目に至る道はとても迷いやすく、場合によっては全然違う場所に繋がっていることがある、ということは、意外とあまり語られません。
ならば、誰かがそれを、教えなければならない。
五十里目、百里目あたりに、誰かが立っておく必要がある。
ある聖人がそう思ったとき、彼は迷いなくそれを実践するでしょう。
たとえそのことで、「あの人たいしたことないよね」と、周りから誤解されたとしても。
「聖人が会得すれば凡人となる」というのは、多分こういうことです。
大切なこと、素晴らしいこと、それを実践する人のことは、凡人には、全然特別でも貴重でも素晴らしくも見えない場合が、多々あるのです。
例えば、東大を優秀な成績で卒業しながら「大切なのは、初等教育だ」と信じて、公立小学校の先生になった人がいるとします。というか、実際にいても全く不思議はないんですが、この人のことを、ちゃんとそのように理解出来る人が、果たしてどのくらいいるのか。
「よくわかんないけど、官僚とかになれなかったから、小学校の先生なんかやってるんじゃないの?」と、つい思ってしまう人も居るかもしれない。
きっとこういう例も、枚挙に暇がないんでしょう。
こういうとき、実践に、信念や自信による裏付けがなかったら。
先の例の人は、不当にバカにされるうちに、きっとくじけてしまいます。
そして、難関資格試験を受け直したり、転職したりする道を選んでしまうかも知れません。もちろんそれも一つの人生です。
でも、この人に、しなやかで確固たる信念があったら。
誰にどう誤解されようと、選んだその道を、貫くでしょう。
だから、実践も大切だけれど、それを支える学習も大切なのです。
身体も、心も大切。
これが、頌に書かれていることです。
人を、悟りへ導く。身をもってその道しるべになる。
たとえ、「ずっと座禅してるのに、仏に『なれない』、その程度なの?」と、誤解されても。
自分が、如来としての本質を解っていれば、もうそれでいい。
今さら「仏に成った」という肩書きは要らない。
それよりも、自分の得た真理とその実践のほうが、ずっと大切だ。
きっとこれが、大通智勝が座禅を続ける理由だと思うのです。
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