無門関第三十五則「倩女離魂」②
無門関第三十五則「倩女離魂」について、綴ります。
今回は前回の続き、評唱と頌に関して考えます。
公案の現代語訳は、こちら。
肉体の中にあるとされる精神的な何か。
英語の「Soul」、あるいは「Spirit」にあたるもの(私はこの両者の違いがよく解っていないので、ここはさらっと流してください)。
日本では「霊魂」と呼ばれています。
日本の霊魂の概念に関しては今回は触れません。
中国では「魂魄」というものがある、と考えられています。
これ、「魂」と「魄」が合わさったもの、という概念です。
魂も魄も、それぞれ「気」と呼ばれる何かで出来ていて、肉体の中にあるもの、という意味では同じようなものに思えるんですが、その働きは全然違います。
ものすごく乱暴にざっくり説明すると、
・「魂」は精神の核のようなもの
・「魄」は肉体の核のようなもの
という感じです。…多分。
なので、「体から魂が抜けちゃった」と言われた場合。
日本的な感覚では、
「魂の方に、自我形成のメインシステムがごっそり乗っかってる」
「残された肉体はただの抜け殻」
というイメージになっちゃうんですが、中国的な感覚だと、
「『魂』は抜け、体外で気を集めようとしている」
「体内には『魄』が残って、そのまま気を動かして働いている」
という感じになるのかもしれません。
それを踏まえて「離魂記」。
倩が王宙を追いかけようとしたそのとき、おそらく倩の魂魄が、生きながら分離したのだろうと思われます。
魂魄は、基本的には、生きている間は分離しないものなので、魂だけを飛ばすには、おそらく死を覚悟する必要があります。
つまり、王宙に対する倩の「我が身を殺してでもあなたの心に報いたいと思った」というのは、単なる比喩表現ではなく、言葉通りの意味であると解釈すべきところなのでしょう。
まずは、蜀の倩には「魂」が、衡州の倩には「魄」が宿っていたのだろう、という推測が成立しそうです。
しかし、話はそう簡単には進まない。
蜀の倩は、肉体に魄を残してきたであろうはずなのに、子を二人もうけています。数年かけて確かな肉体を形成してしまっているわけです。
また、魄だけが残されていたであろうはずの衡州の倩は、蜀の倩が戻ってきたことがわかると、喜びを表現しています。ある種の精神活動が可能になっている。
双方、魂と魄がはっきりくっきり分離している、という感じではなくなってきているように見えるんです。
それぞれ、足りないものを補おうとしている感じです。
なぜこんなことが起るのか。
そもそも、「生きている間は分離しない」「死んだら分離して魂は天に魄は地に」というのも、よく考えたら不思議です。
生きている間だけ両者を繋ぎ止める役割を持つ何かがあることになる。
それが何なのかは、多分儒学も道教も教えてはくれないんですけど。
なのでここからが完全に個人的なこじつけに近い想像ですが。
この公案を作った法演、この公案に触れた無門、その他多くの禅僧、彼らが考えている「真底」というのは、この「魂と魄とを繋ぎ止めているもの」のことなのではなかろうか。
時に魂に働きかけ、時に魄に働きかけ、その生命をできる限り維持し続けようとするもの。
「殻から出るも、殻に入るも、自由自在」というのは、単に霊魂が肉体を乗り換えるというだけの意味に留まらず、場合によっては霊魂すら、旅の宿のような扱いになることもある、とまで言っていそうな気もします。
そんな気がするだけです。
でもそうとでも考えないと、衡州の倩が喜びを表現したことの説明が付かなくなる気がするんですよね。どこかから魂の気をもってこないとああいう現象は起きないでしょ。
じゃあどこから? って考えると、結局、生きている以上はか細く繋がったままである蜀の倩の魂の気をパチってきたんだろうと思うんです。
でも、魂というものが真底であるのなら、そんな綿菓子をちぎり取るみたいに魂の一部をちぎって魄の隣にくっつける、なんてこと、出来ない気がする。
同じことは、魄にも言えます。
最初は「真底」らしき何かが蜀に魂を飛ばそうとしてそっちにシフトしちゃったんで、衡州の魄が魂側に引っ張られ始めて、子を産めるまでに肉体が形成された。
しかし、衡州の倩に思いを馳せる度に、今度は魄側にシフトし始めたので、魄側に蜀の魂が引っ張られ始め、衡州の倩は簡単な精神活動ができるようになり始めた。
これが、5年の間に起っていたことなんじゃなかろうか。
だから、「魂」が真底なのではなく、「魄」が真底なのではなく、それを繋ぐ何かがどちらにシフトするかで、どっちが確かな実体を伴うかが決まってしまう。
どちらも本物になり得る。
そういうことなんじゃないかなあ。
とまあ、ここまでつらつら考えましたが、私は本来、自分が体験していない現象や、現代科学で説明が付いていないことは、距離を置いて眺める、というスタンスの人間なので、今回綴ったことは「悟った」という認識ではありません。
全然実感がないですから。
あくまで、頭でこねくり回しただけの想像です。
「こうかもしれないなあ」程度の認識を「そうに違いない!」と思い込んで軽々に動き回るのは、あまりいい結果に繋がらないのでしょうし、「真底とはなんぞや」を深掘りするのはこの辺りでやめておきます。
現代日本の多くの人は、いわゆる霊魂という存在にはどちらかというと否定的で、「死んだら無になる」と考えている人も多いようですね。魂魄という概念で言うと「魄しかない」と考えている感じでしょうか。
そういう人は大抵、「死ぬときに後悔しないように、したいことはすべてしておく方がよい」という方向で考えるようなのですが、果たしてどうなんでしょう。
結局のところ、本当の意味で死後どうなるかを知っている人は、この世にひとりもいないわけで、ならば、どうすれば死の際に後悔せずにすむかも、結局は想像の範囲でしかない。
「真底は魂である」とだけ考える人は、「死んでも来世があるんだし、適当に生きよう」という発想になってしまうかも知れない。
「真底は魄である」とだけ考える人は、「死んだら無になるのだから、生まれ変わりなんて嘘っぱちだ。ならば好き放題したいことをしよう」という発想になってしまうかも知れない。
どちらも、あまり極端になると、いい生き方に繋がらない気がしますし、最終的に後悔することになるかも知れないですよね。
「『魂』?『魄』? どっちも『目に見えないもの』でしょ。『魂魄』で良くない? なんで分けて考えるの?」というのは、「空に浮いてるんだから、月も雲もおんなじものでしょ」と言ってるのに似てる。
「魂と魄は全然違う。精神と肉体でしょ。どちらかに真底があるはず」というのは、「山と谷って全然違うよね」と言ってるのに似てる。違うように見えますけど、山と谷って、よくよく辿れば切れ目のない地続きですからね。どちらも土で出来てることに変わりはないです。
同じように見えるけど違う気がする。
違うように見えるけど同じ気がする。
一であるか。二であるか。
決まっていることではないんじゃないですかね。
肉体と霊魂。
物質と精神。
どちらか一方だけを重視するのでなく、バランスよく大切にして生きるのが、結局はいちばん傷が浅くて済みそうな気がしています。
ついでに言うと、「実際に行うわけじゃないから、想像してるだけだから」と、ろくでなしの伴侶、鬼のような舅姑、パワハラ上司、ポンコツ部下、クレーマー、などなどを、脳内で殺して憂さ晴らしする、なんてことを続けていると、その思いの強さによっては、それが「実際にやった」にカウントされちゃうかも知れない、とも考えられるわけですね。
蜀の倩が実体を持ってしまったみたいに。
そして死後、無にならず、地獄の閻魔様の前に引き出され、挙げ句に、「おまえ、それ、もう『殺してる』よ。だからお前、次は畜生界ね」と言われてしまう、なんてことになるかも知れないわけです。
そのとき「そんなつもりじゃなかった。誰もこんなこと教えてくれなかった」と慌てずに済む程度には、穏やかな心持ちで暮らしたいものです。
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