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上弦の月

 受け月に願いをかけると叶うと聞いたのはどこで誰からだったか。
 誰にも言えない願いを、掬い零さず受け止めてくれる月だという。

 上弦の月の中でも、皿のように薄く真っ直ぐに冴えた月が、受け月と呼ばれるのだという。しかしこの月が、夜空に姿を見せるのは、一年の中でも実はそれほど多くはないらしい。
 偶々夜空に浮かぶ日に、雨も降らず雲もかからなければ見えるその月に、願いをかける。
 そのとき誰かに見られたらすべて水の泡、誰にも見られず知られず祈ってようやく、叶えて貰えるのだというような話ではなかったろうか。

 私は、意識の混濁したまま入院している恋人の病室を、毎夕訪れていた。
 新しい着替えを棚にいれ、看護師がまとめてくれたらしい洗濯物を持ち帰ってコインランドリーで乾燥まで済ませ、彼の部屋に行き、郵便物を取り込んで整理し、自宅に帰る。
 夕方帰宅してから病院に直行できるようにと、自宅に持ち帰るようになった彼の衣服に、不安を感じながらも泥のように眠った。

 身体の具合がおかしいという彼を説き伏せるように近くの内科に連れて行ったら、「紹介状を書きます。どこの病院がいいですか?」と訊かれた。
 その紹介状を持って、少し離れた総合病院に、彼に付き添って行った。
 初診時、そのまま入院の運びになった。

 彼の実家は飛行機で数時間の場所にある。
「ご家族にも病状を説明したいので、連絡取れませんか」という医師の言に、彼は難色を示し、まず彼女に説明してほしいと言い張った。
 彼が病室に戻っているうちに、医師が私に病状を説明してきた。
 想像以上に深刻な検査結果だった。

 彼と普通に話が出来たのは入院翌日までだった。
 以降、病室で人が変わったように当たり散らすようになったのは辛かったけれど、眠り続けるようになってからは、当たられてもいいから目を覚まして欲しいと心の底から思った。

 自宅から病室に向かう道の途中に、小さな神社がある。
 今まで折々に二人で参拝していた神社だった。
 私には目指している夢があった。
 神頼みを好まない彼にねだり、少しでも状況が好転しますようにと、通りがかるたびに、名も知らぬ神様にふたりで祈ってきた。
 彼が入院してからは、ひとり、彼の快癒を祈るようになった。

 冴え冴えとした冬の夕方だった。
 医師から「一日も早くご家族を呼んでください。最悪、間に合わなくなります」と言われた。
 入院した日から、さほど長い日数は経っていなかった。
「あなたが籍を入れておられれば、あなたでも大丈夫なんですが」という医師の言葉に、自分の立場の脆さを知らされた。
 彼は私に実家の話をほとんどしたことがなく、家族にもまだ紹介されていなかった。
「何か不都合があるのなら、連絡先が解れば、私から連絡を入れます」という医師に、病室で眠り続ける彼の携帯から黙って探し出した実家の連絡先を見せた。医師が即座に受話器をとり電話をかける様子をぼんやりと眺めた後、病院を後にした。

 その日、私は初めて、神社の前を素通りした。
 近くの小さな公園のベンチに腰かけ、ぽろぽろと涙をこぼした。

 日が落ち、車のライトが灯り始め、酔客の喧噪が遠くで聞こえ始めるようになり、その喧噪が減り始めても、腰を上げることができなかった。
 車の通る音も少なくなり、ようやくよろよろと立ち上がり、何気なく見上げた空に、上限の月が白く光っていた。

 幾つもの、人の狂おしい願いを、ずっと受け止め続けてきたのだろうか。
 受け月。
 神様ですら叶えてくれない願いを、私は、生まれて初めて、神様ではないものに祈った。

 彼を助けてください。
 彼が死んでしまうなんて、耐えられない。


 病院から、彼が目を覚ましたと連絡が入ったのは、その数日後のことだった。
 奇跡的だと言われた。
 できるだけ急いで病室に向かった。
 そこには、ベッドを起こして穏やかにこちらを見ていた彼と、その脇に座る彼の家族がいた。

 病室内で、彼の家族から丁重にお礼を言われた。
 彼と意識が戻ったことを喜び合い、彼の兄と二人、病室を出た。
 自宅に帰る道すがら、歳が離れているように見える彼の兄は、先程のように礼の言葉を口にした後、はるか年下の若い女相手にとても丁寧に名刺を渡してきた。
 そして私に、今後のために、と電話番号を訊ね、自分の携帯に登録し終えた後で、少し言いにくそうに、話し始めた。

 彼の容態は完治したわけではないこと。
 再び悪化する可能性も充分あること。
 一人で療養するのは難しいこと。
 退院後は実家に引き取ることにしたこと。
 そのため、今の職場は辞めるよう、話をしているところであること。

 彼は実家と少し折り合いが悪く、随分長い間帰っていないこと。
 私が彼の傍にいるうちは、実家に戻ることを嫌がるだろうこと。
 彼に、死んでほしくないこと。

「あなたのほうから、弟と、別れてやってくれませんか」
 実直そうな彼の兄は、私を真っ直ぐ見てそう言った後、頭を下げた。

「彼は、きっと、信じないと思います」
 そう言うのが精一杯だった。
「そうかもしれません。それならせめて、弟から来る連絡を、受けないようにしてもらえませんか。あなたと連絡が取れていたら、きっとそちらにひっぱられてしまう。そうしてくれれば、『治ったらまた会いにいける』とでも、こちらで言い聞かせます」
 どちらが良いのかわからなかった。どちらも同じようにも思えた。
 彼は悲しむだろうか。いつか私を憎むだろうか。
 けれど私は幾つかの事情でこの土地を離れることが出来なかったし、彼に死んで欲しくもなかった。ならば、他に何が出来るというのだろう。

「連絡、あんまりとれなくなるかもしれないけど、ごめんね」
 翌日、家族がすでに来ていた病室を訪れ、彼に告げながら、必死で笑おうとした。口角というものはこんなに重たいものだったろうか。
「これからしばらく、忙しくなるから」
 彼の母親が、かすかに息を一つついたような気がした。
「そうか。頑張れよ」
 聞きたくてたまらなかった声だった。
 これ以上居たら泣き出してしまう。
 焼き付けるように彼の顔を見た後、病室を後にした。

「こんなことがなかったら」
 私を送りながら、彼の兄がぽつりと言った。
「すみません。こんなになる前に、病院、連れて行けなくて」
「いや、あなたのせいじゃない。四六時中一緒に居るならともかく、こんなに急に生死の境を彷徨うなんて思わないでしょう。それに大体あいつは、子供の頃から、もう本当に病院が大嫌いでね」
 こんなときでも、溜息のような笑いは出るのだと言うことを、知った。

「治ったら、また、会えますから」
 足下を見ながらとぼとぼと歩く私に歩調を合わせながら、ほんの少しだけ明るくした口調でそう言った彼の兄に、私は顔を向けた。
「両親がどう考えているかは解りません。特に母は、なぜあなたがいながらと、少しだけ思っているような節もあります。すみません。普段はどうでもやっぱり母親なんでしょう。だけど、私は『治ったらまた会える』と、本当に思ってます」
 私は、足を止めて、黙って向き直った。

「今のところは、いつ治るのか、そもそも本当に治るのかもわからないから、こんなことを言うと、あなたを無駄に待たせてしまうことになる。あなたにはもっといろんな未来がある。そう思ったから本当は言わずにいようと思いました。だけど」
 彼は、ポケットからハンカチを取り出して差し出しながら言った。
「このままあなたを帰すほうがまずい気がする。だから言います。『治ったらまた会える』というのは、私の本心です。弟ではなく私にならいつ連絡くださっても構いません。取れなければ折り返し連絡します。容態が変わったら、必ず私からあなたに知らせます。弟のことは、こちらで精一杯支えますから、あなたも信じていてくれませんか」
 ハンカチを私に握らせ、スーツの内ポケットをさぐり始めた。
「私の名刺、ちゃんと持ってくれてますね? いや、探す必要はありません。何枚でも差し上げます」
 私は、自分がいつの間にか泣いていたことに、このとき気づいた。

 月は確かに、願いを叶えた。
 けれど、そのために、私は代償を払わなければならなかった。
 ならば、そうと知っていたら、あのときあの月に、願わなかったろうか。
 神様すら叶えてくれない願いを叶えてくれた月に。
 そのために、彼と別れることを強いた月に。

 不意に、携帯の着信音が鳴った。 
 彼の番号だった。

「ああああああああああああああ!」
 音が止むまで、人目も憚らず大声で泣き叫ぶ私を、彼の兄が、じっと見ている気配がした。


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