無門関第六則「世尊拈花」現代語訳
現代語訳
本則
釈迦は、昔、霊鷲山での説法会で、花を一本つまみ、聴衆に示した。
このとき、聴衆は皆、黙り込んでしまっていた。
唯一人、迦葉だけが、顔をほころばせ、微笑んだ。
釈迦は言った。
「私はかつて、悟りに至った。
物事を正しく見通す眼をもち、故に一切の迷いがない。
その実相は無相であり、人智の及ばぬ境地である。
この悟りは、文字で表すことはできず、経典にも書かれていない。
これを今、迦葉に伝えた」
評唱
悟ったゴータマも、随分勝手な振る舞いをしたものだ。
良を圧して賤と為すがごとく。
あるいは、羊頭を掲げて狗肉を売るがごとく。
なるほど、多少は非凡な人物であるようだな。
ただ、このとき聴衆が全員笑ったとしたら、正法眼蔵をどのように伝えたのだろうか。
もし、正法眼蔵を伝授できるというのなら、釈迦は一般聴衆を騙したことになる。
もし、伝授できないというのなら、どうして迦葉にだけ、伝えたのか。
頌
花を手にしたそのときに、すでに尻尾が顕れている。
迦葉は微笑む。誰も手も足も出ない。
注記
原文では「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門の、四つを得た」と釈迦が言っています。
この四つの言葉は、仏教用語でしょうね。
何とか頑張って訳してみましたが、それでも大幅にズレていると困るなと思ったので、単語そのものを一応記しておきます。
原文では、無門が釈迦を評する際「奇特」という言葉を使っています。
現在では否定的な意味合いが強くなった言葉ですが、本来は肯定的な意味合いのほうが強かった言葉です。
いずれのニュアンスで用いられているのか判然としなかったので「非凡」と訳しました。
個人的には、肯定的なニュアンスが強いように感じています。
ゴータマは、釈迦の姓です。
釈迦の俗世名は、ゴータマ・シッダルタです。
釈迦は、シッダルタがシャカ族の出身だったことに由来する呼び名です。
「シャカ族の聖者」という意味の「釈迦牟尼」を省略して釈迦と呼ばれることになったとのこと。
近しい誰かのことを、出身地や住んでいる場所の地名で呼び表すことが、昔は結構あったみたいです。第四則の達磨を指す「西天の胡子」もそうですね。今は多少そういう傾向は薄れたでしょうか。
私の母は今でも親戚のことを指すとき、現住所の地名で言い表すことがよくあります。
「羊頭狗肉」という四字熟語は、この文章が元となった言葉だそうです。
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