無門関第三十四則「智不是道」

 無門関第三十四則「智不是道」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 前回の公案で「これが解ったなら禅の修行は修了だね」と書いてあったので、今回からは応用編とでもいうべき内容なのでしょうかね。
 だからでしょうか。久しぶりにきました。短すぎてわけわかんない系。
 たったこれだけの文章なら、どんな風にも読めそうで、本当に困ってしまいます。
 こんなのに「正解」なんかあるわけない。
 そう自分に言い聞かせつつ、思ったことを綴ります。


 まず、前半について。
 馬祖は前則で「非心非仏」と言い、南泉は本則で「心不是仏」と言いました。
 馬祖が「心でないものは仏でない」と言うのを聞いた人の多くは、多分「そうか、心こそが即ち仏なんだな」と思うでしょう。
 しかし南泉が「いや、心こそが仏というわけじゃないよ」と言う。
 じゃあなんなの、と、悩んでしまうところです。

 これまで何度も書いてきましたが、心は目には見えません。
 心を伝えたければ、伝わるように行動する必要があります。
 行動して、誰かに伝わって、ようやく心が見えるものになる。
 このとき、その形によっては、「仏さまのようだなあ」と思われることもあるのでしょう。

 つまり、「行動に反映された心が、時折仏である」とは言えるかも知れませんが、「心は皆それだけで仏である」とは言えないということかと思います。だから「心不是仏」。

 なので、前回の馬祖の「非心非仏」と、南泉の「心不是仏」は、私にとっては、ほとんど同じような意味なんです。

 というわけで、ここまでは、前回のおさらいみたいなものなので、もうひとまずこれでいいとして、次は後半。
 南泉は、続けてこうも言いました。
「智不是道」。
 この意味を、これから考えます。

 そもそも、「智」と「道」の意味を、いきなり上手いこと説明できる日本人が、どのくらいいるんでしょう。
 智は智慧のことでしょうか。
 道とは。…。

 とりあえずネット上の辞書で調べることにしました。
 まず、道というのは、様々な意味を内包している語のようなのですが、ものすごくざっくり言うと、森羅万象の普遍的法則、人を正しく導くための道理、守るべき教え、これらをひっくるめた概念のようです。
 そして、智というのは、様々な事象や道理に対して的確な判断を下すはたらきのことだと思えば、さほど外れてなさそうです。

 つまり、さらにざっくり言うと、「道というものを実践するために必要不可欠なものが智である」となるのかもしれません。
 道はまず目指すべき境地、智はそのための手段、とでも言えるでしょうか。
 ならば、ついでにざっくり言うと、「智は道を実践するために不可欠ではあるが、智がありさえすれば必ず道を体現できるというわけではない」とも言えそうです。
 そういうわけで「智不是道」。

 こう考えると、先程の「心不是仏」と、いい具合に対のような表現になっているようにも見えてきます。

 心も智も、人為で何とかできる範囲のもの。
 対して仏も道も、森羅万象を司る何らかの理によって生まれたと考えられるもの。目指すことは出来るが、人為でどうこうできる範囲のものではないもの。

 道、あるいは仏というのは、言ってみれば、晴天に陽が昇り、降雨によって地が潤うというような、人智を超えた宇宙を貫く理に近いものである、と、無門はじめ当時のえらい禅僧たちは考えていたということなのでしょう。

 その考えの真偽や良し悪しはどうあれ、このように考えておけば、例えば、「我こそが仏である」などと言いながら自己を不必要に増長させる、という醜態はさらさずにすみそうです。
 人は、何かに対する畏れをまるっきりなくしてしまったら、まぁろくなことをしませんから、やっぱりある種の謙虚さは、ずっと持っていた方がいいんだろうと感じます。
 必要以上に卑屈になる必要はまったくないと思いますけど。


 ところで、現代の日本の、主に関西において、気障なことを言ったり、メッセージ性の強い言葉を熱く語ったりすることを、肯定半分揶揄半分くらいの感じで「クサい」と評することがあるんですが、無門がちょいちょい南泉に対して言う「臭い」もそういう意味なんでしょうかね。
 というか、あの「クサい」って、もしかしてここから来てるの?

 クサいと思われようと思われまいと、南泉のような人が堂々と言葉にしてくれた、そのおかげで、彼らの考えたことが後世まで残り、後進に伝わっていくわけで、それはやっぱり、素晴らしいことだと思うのです。
 変化球もいいでしょうけど、少しくらいは、直球の賛辞を贈っても、バチはあたらんのじゃないかと、私などは思うんですけどね。

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