無門関第三十九則「雲門話堕」②
無門関第三十九則「雲門話堕」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
今回は、張拙の句について。
僧侶はいったい、何を訊ねようとしていたのか。
この辺りのことを考えます。
張拙の句の全文は、現代語訳の注釈に付記してあります。
直訳まではしてあります。
結構難解な句です。具体的な意訳までは付記していません。
張拙は、科挙に挑戦した人です。
相当頭が良かったんでしょうね。
周囲の期待を背負って育った人でもあったんでしょう。
まずは、「出世コースにのるのが幸せの道」という価値観の人だったろうと思われます。
しかし、古代中国の科挙は非常に過酷です。だから、もしかしたら、スパッと合格できなかったのかもしれないですね。
で、参禅し、仏法やそれを伝えてくれる僧侶に触れる中で、いろいろなことを感じたのでしょう。
それはもしかしたら、こんな感じだったのかもしれないと、私は想像しています。つまり以下は、私なりの、超訳とも言うべき意訳です。
科挙合格を目指す自分と、参禅する自分は、同じ自分だった。
「あ、今オレ、聖なる存在になった」なんていう瞬間はなかった。
そして、どんなときも、自分には同じ陽の光が降り注いだ。
どんなときも、どんな人にも、同じように光が降り注いでいる。
自分ひとりがどうであろうと、世の中は、そして天の慈愛はかわらない。
そう思って眺めると、実にいろんな人がいる。
いろんな人がいてこその、広い世の中だ。
自分はいまだに聖人とは言えない。
あいかわらず悩み多いままだ。
参禅し仏法を学べば聖なる境地にたどり着けるかと思っていた。
しかし。
仏道を志す者の集まる寺でも、いろんなことがあった。
それは決して綺麗なことだけじゃなかった。
不合理なことも、醜いものも、たくさんあった。
粥と菜っ葉ばかりで体を壊すくらいなら、肉か魚も食えばいいだろうに。
女と関わるのを断ち、その反動で小坊主相手にこじらせるのが、望ましい在り方だというのか。
しかしそんなことを言うと、「これだから在家は」「これだから頭でっかちは」というような拒否反応もしばしば返ってくる。
大悟を目指す僧侶にさえ、いろんな人がいるのだ。
参禅の道にも苦痛はあった。
俗世でもその流れに上手く乗れているときは苦痛が少なかった。
「綺麗なだけの世界」なんか、きっと、どこにもない。
私があの句から何よりも強く感じるのは、「乾いた絶望」です。
一と全。健康と病。無欲と欲。真と邪。聖と俗。
しかしこれらは、二つに切り分けることなんか、きっとできないと、張拙は思ったのかもしれません。
私は、オペラ座の怪人に関する一連の記事の中で、「幸福を知ったときに初めて不幸を知る」と書いた覚えがあります。
だからこういう受け止め方になったのでしょう。
他の人があの句を読むと、違う内容のものになるでしょうか。
では今回、雲門に問いかけた僧侶は、この句のどこに引っかかりを感じたのか。
それは、正確にはこの僧侶にしかわからないことですが、なんとか推測するならば、最後の一文じゃないだろうかと思います。
「涅槃生死是空華」
涅槃も生死もこれ空華なり。
では、空華とはいったい何か。
これが、僧侶が本当に問いたかったことなのではないか、と思うのです。
この「空華」というものに関しては、いろんな人が、いろんなことを言ってるようなんですけどね。
「ない」んだ、と考える人。
「ないという状態があるんだ」という考える人。
後者は、虚数という概念を生み出した数学者のようでもありますね。
空華とは何か。非常に難解です。
果たしてどう捉えるべきものなのか。
今の私には、わかりません。
見解がわかれているということは、「わかっていない坊さんもいっぱいいる」ということでもあろうかと思います。
では、雲門はどうだったのでしょう。
雲門は、僧侶がワンフレーズ諳んじたのを聞いただけで、それが張拙の句であると瞬時に認識しています。
ならばきっとその全文を雲門も知っていたのでしょうし、その内容がどういうものなのか、そして、修行僧がこれに触れたとき、どこに疑問を感じやすいか、これらのことも、瞬時に理解出来たのだろうと思うのです。
その結果、雲門が選択した返答の仕方が、「僧侶の問いかけを遮る」「他人の句であることを理由に問答を打ち切る」だったわけですが、これ、雲門、どういう心境だったんでしょう。
雲門は、以前の公案でも何度か登場しました。
「どこから来たの?」と訊ね「査渡です」と答えた僧に「お前ひっぱたくぞ」と言った人です。
「仏とはなんぞや」と問われて「乾いて固まった糞である」と答えた人でもあります。
基本的には、相手自身に考えさせるスタイルの人ではあるんでしょうし、雲門がそう答えたかったんなら、しょうがないんですけど、もう少しどうにならんもんですかね。
だって、見る角度によっては、こんな風にも見えるんですもん。
「せんせー! あのね。時間の速さって、いつも同じじゃないんだって! それでね」
「ああー待て待て。それはあれか、アインシュタインの一般相対性理論か」
「うんそうだよ! でね先生、う」
「待て待て待て! あー、その、あれだ。
人が言ってたことを聞きかじって何になる。
そんなことよりちゃんと宿題しなさい」
「…はぁーい」
先生、ほんとにちゃんと「解ってた」のだろうか?
まあ、「空の星は雨を降らせるための穴なんだぞ」と息子に堂々と大嘘こくお父ちゃんと、それをみて「うちのお父ちゃんはなんて賢いんだろう」とうっとりするお母ちゃんよりはマシかも知れませんけど。
雲門は多くの弟子を抱える和尚さんだったので、あんまり格好悪いところは見せられないという立場の人です。
だから、たとえ解らないことがあっても「いやーそれ、実はわしもわかんないんだよね。一緒に考えようか」とは簡単には言えないだろうというのも、理解できます。
でも、今回のケースがもしこれだったのだとしたら、あまりいい状態じゃない気もするんですよね。少なくともあまり禅的な振る舞いではない。本人だけの責任じゃないとは思いますけど。言わせない空気を作る弟子にも責任はあるから。
「孤危」すなわち「孤立して危ない」と無門が評したのは、この辺りのことかもしれないと、私は感じています。
ただ、上っ面を聞きかじって受け売りを喋ることに大した益はない、ということは事実なので、この問答も、僧侶にとっては大いに有益ではあったと思います。
次はいちいち頭のいい人のフレーズを引用なんかしないで、いきなりズバッと訊ねてしまえ。
大御所の前で「ボクこんなに知識があるんですよ」と格好つけたってしょうがないんですから。
虚勢を捨てて素直に問えば、違う何かが、きっと得られます。
できるだけ素直に自らの心身で対峙する。
肝に銘じたいところです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?