涙香
上
「それじゃ、行ってくる」
早朝の駅のホームで、男は女の頬にキスを一つ残し、東京行きに乗り込んだ。
女は右手を軽く振りながら、軽い微笑でそれを見送った。
若い頃、様々な職を渡り歩き、一時華やかな業種にも身を置いたことのある男は、さほど美形でもなければ若くもないけれど、不思議とどこかあでやかな男だった。
この男でなければ、こんな人目を引くような気障な真似はさせないのに。
女は、列車を見送った後、男のために浮かべていた微笑をすっと消し、男と暮らしている部屋に、帰って行った。
実家に戻らねばならない用が出来たのだと、男が女にそう説明したのは、数日前のことだった。有給の手続きに少し手間取ったと、事もなげに言っていた。
三泊四日ほどの予定になるという。そのわりに大きめのボストンバッグに自分で迅速に荷詰めをしていく男の背中を、女は相槌を打ちながら眺めていた。
男は、理性的な顔の下に、並み外れた芯の強さを持っていた。その強さに女は、守られ安らぐこともあれば、望みを叶えられず腹を立てることもあった。
男は自分が一度決めたことは、余程のことがない限り変えることがない。
それは、男を傍で見続けてきた女が、誰よりも知っていた。
「向こうに着いたら連絡するから」と穏やかに言う男に、「久しぶりにご両親に会えるわね」としか女は言えなかった。
男がいなくなり、心持ち広くなった部屋の電気をつける。
バッグを放り投げ、着替えもせず、ソファに腰を下ろした。
無音を恐怖にも近い嫌がり方をする男は、寝ている間でさえテレビを消さない癖がある。いつしかそれに慣れた女は、無意識にテレビをつけ、それを、ソファに座ったまま、観るともなく眺めた。
コメディアンの、芝居がかった笑い声が耳に障る。
女は音を消し、目の前の箱の中の明るい風景を、ただ眺めていた。
静かだ。
自分の溜息の大きさに、驚いた。
男からのメールが携帯に届いたのは、夜のことだった。
「親父もお袋も元気だった。明日から兄貴と片付けなければいけない問題がいろいろある。留守を頼む」
男は、嘘が上手かった。
そのことに気づくまで、女は何度も男と傷つけ合わねばならなかった。
「お疲れ様。あまり無理しないようにね」
返信した女も、いつの間にか、嘘のつける女になっていた。
今頃、どんな女と、逢ってるの。
一人になってさえ、口から溢せない言葉が、女を苛み続けた。
下
男の居ない部屋は、静かだった。
時折男から届くメールの着信音と、部屋の生活音、遠くから聞こえる外の車の音。それだけを聞いて、女は三つ、夜を越えた。
男は出立前、自分がいない間、部屋の中はすべて好きに使っていいと、言い残していた。
部屋には男がかねてより集めていた、映画や芸能の映像が山のようにある。それらを片っ端から見れば、数日などあっという間だろうと、男は一見人好きのする目で、朗らかに笑っていた。
青髭は、地下の部屋だけはダメだと、言い残したけれどね。
今は電源の落とされた、男の愛用のパソコンを眺めながら、女はそんなことを思った。
自分の傷と苦しみを、泣いて訴えたら、この人だけはそれを放っておけるはずがないと、信じて疑わない若さが、女にもかつては確かにあった。
あの頃の自分なら、あれの電源を迷わず入れたのだろうかと、ぼんやりと思う。
広いダブルベッドに寝そべったまま、女はもう、腕を上げることすら億劫だった。
枕元に、男の残り香がある。
一人でこの部屋にいられたのは、この香が傍にあったからなのかもしれない。
そう思った途端、女の目からようやく、涙が零れた。
悲しくて、悔しくて、憎くて。
恋しくて。
四日目の夕方、あの日男を見送った駅で、女は男の帰宅を待っていた。
迎えに行くというのは、かねてよりの約束だった。
男は、予定通りの時間に、駅の改札を出てきた。
男は女を見つけるなりずかずかと近寄り、女の前で破顔一笑した。
「ただいま」
「おかえり」
女は、やはり、顔に微笑を浮かべていた。
男は、女の顔を見るなり、どこか不思議そうな、驚いたような、よくわからない表情を、一瞬浮かべた。
そして、男は、バッグを足下に置き、いきなり女を抱きしめた。
内心驚く女の耳元で、男は囁いた。
「あの部屋を、出て行ったかもしれないと、思っていた」
男は、女を抱きしめ続けた。
「お前が本当に迎えに来ているなんて、思わなかった」
「どうして?」
女が言葉に出来たのは、それだけだった。
その夜、ベッドの上で、男は、やはり一見人好きのする目で女を真っ直ぐ見つめ、女に初めて「愛している」と告げた。
女は、大粒の涙を、ぼろぼろとこぼし続けた。
それを男に一つ残らず拭われながら、女はそれが、どんな涙なのか、いくら思いを巡らしても、遂にわからなかった。(了)
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