無門関第八則「奚仲造車」

 無門関第八則「奚仲造車」について、綴ります。
 公案の現代語訳はこちらから。
 今回の訳文は、あまりこなれてないので、あんまりおすすめできません。

 大昔、中国で初めて馬車を造ったという奚仲が、車の車輪を取り外し、車軸を取り外して、車をバラバラにしたらしい。
 一体どういう目的で、そんなことをしたのか。
 これが今回の公案です。

 評唱で無門は、「奚仲が明らかにしたかったことが何かを、すぐに理解できるなら、その者の、物を見る眼は流星のようであり、機、すなわち心、あるいはその肝心要の働きは、稲妻のようである」と言っています。

 流星。
 いざというときに、とても素早い速度で表れては消え去るもの。
 そして、何かの死を感じ取ることができ、それを教えてくれるもの。
(これについては、現代語訳の注記をごらんください)
 稲妻もまた、非常に素早く表れては消えるもの。

 つまり、「頭で、理屈で、じっくりいろいろ考えるというより、直感的に腑に落ちるだろう」と、言っているのだと思います。

 実際のところ、「奚仲は車をバラバラにしてまで、何を明らかにしようとしたのか」については、私は流石に「瞬時に解った」とまではいきませんでしたが、わりと短時間で、思い当たったことが、一つあります。

 

 奚仲は、自分が造った車の、一体どの部分に、車としての本質があるのか、どの部分が、車を車として成立させているのか、それを知りたかったんだと思います。


 車は、車軸の両端に車輪が付いていて、車軸の上に車体が乗っています。
 動かすときは馬がひきますが、何なら人間が押しても引いても動きます。
 ならばまず、馬は車の本質ではありません。

 では、車輪がなければ、車とは言えなくなるだろうか。
 そう思ってまず、車輪を外しました。
 しかし、車軸は、細長い円柱状の棒で出来ています。
 なので、極端なことを考えると、太い車軸の取り付け方次第では、何とか移動することは、出来なくもなさそうな気がしてきます。
 そう思ったので次は、車軸を外してみました。
 箱状の車体が残りました。
 これは何となく、「車」とは言えなさそうです。

 ならば、2つのまるい車輪こそが「車の本質」なのでしょうか?
 しかし、この車輪だけでは、人や物を運ぶことは出来ません。
 車軸にしても同じです。

 これらの部品を組み上げて「車」を造ったはずなのに、再びバラバラの部品に戻したら、「車の本質」が、どこにもなくなってしまったのです。
 奚仲は、きっと、車が生まれるところを見てきた。
 そして車を分解したとき、車が死ぬところを見たのです。
 それを見ることが出来る眼が「流星のようだ」と言えるのでしょう。

 車だとピンとこない人は、例えば、人間に置換えると何となくわかるんじゃないでしょうか。

 人間の本質は、身体にあるのか。精神にあるのか。

 手足が無くなったくらいでは、その人の本質は失われません。
 座禅のしすぎで手足が腐り落ちても、達磨は達磨でした。
 けれど、例えば、心臓が止まれば、人は死にます。
 ならば、人の本質は心臓にあるのか。
 だとすれば、心臓をもぎとられ、代わりに人工心臓を埋め込まれたら、その人はその人ではなくなるのか。

 それとも精神にあるのか。それを司るとされる脳にあるのか。
 ならば脳が死んだら、その人はその人でなくなるのか。
 でも、脳死に至った人の身内の多くは「まだこんなに身体が温かいのに」と、なかなかすぐにはその人の死を認めることが出来ません。
 逆に、生きた脳だけとりだしたとして、その活動を維持させることが出来たら、その人は、「変わらず人として生き続けている」と言えるのか?

 多分、奚仲は、自分が生んだ車について、これと同じようなことを考え、そして知ろうとしたのだと思うのです。

 けれど、「一つ一つ、部品を取り外していったとき、その本質の有無の境は一体どこなのか」は、どんな達人でも、迷わず指し示すことは、極めて困難なことだと思うのです。
 それこそ、森羅万象のすべてを疑い抜いて、上を下に、下を上に、表を裏に、裏を表にひっくり返すような思いで、考え抜いても、それでも、解るようになるのかどうか。

 現段階の私には、「解るようになるはずだ」と断言はできません。
 とりあえず、公案の続きを、考え続けることにしようと思います。

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