無門関第五則「香厳上樹」現代語訳
現代語訳
本則
香厳和尚は言った。
「人が樹の上に、登っているとする。
口で樹の枝に噛みついている。手は枝を掴んでいない。
足も樹を踏みしめていない。つまり、宙ぶらりんだ。
このとき、樹の下にいる人が、『何故達磨は西からやって来たのですか』と問うてきたとする。
樹の下の人は答えを求めているのだから、答えねばならない。
しかし、答えようとして口を開いたら、たちまち樹から落ちて絶命してしまうだろう。
まさにこのような状況では、どのように答えたらよいだろうか」
評唱
立て板に水のような弁舌を持っていたとしても、何の役にも立たない。
大蔵経を、普段は説くことができても、これまた何の役にも立たない。
しかし、もしもこの状況で、答えを得、そしてそれを示すことが出来るなら、これまでの死地にある者を活かし、これまでの活路にある者を死に至らしめることができるだろう。
それとも、もし、まだその境地に至らないというのなら、五十六億七千万年後にこの世に降臨する弥勒に訊け。
頌
香厳は妄言を吐いている。有害なること限りが無い。
禅僧どもの口を塞いでおきながら、自分は、鬼眼を、全身に開いている。
注記
仏教の経典は、三種に分類されたようです。
それは、経蔵・律蔵・論蔵の三つ。この三つの総称を、大蔵経と言うそうです。なので大蔵経というのは、「仏の教えの書かれた経典のすべて」くらいに理解しておいてもいいのではないかと思います。
ちなみに、この三つ、すなわち三蔵を修めたと認められた僧侶は、「三蔵法師」と呼ばれました。
日本では、西遊記に登場する玄奘が最も有名な三蔵法師でしょう。
つまり、三蔵法師というのは、玄奘三蔵だけではなく、他にもいます。全部で何人いたのかは、私は知りません。
古代中国では、人は死んだら鬼となると考えられていたようです。
日本の昔話に出てくる、いわゆる「鬼」とは、もしかしたら少し性質が違う部分もあるのかも知れません。
鬼の眼は、ギョロギョロと鋭く光り、あらゆるものを見落とすことがなかったとか。鬼の眼は一眼であるともよく言われますね。
しかし「鬼眼」というものが一体どんなものであるのか、現代の日本人である私にはどうしても理解しきれないので、しっくりくる訳し方がちょっと思いつきません。
なので、余計なことは敢えて書かず、「鬼眼」とだけ書いておきます。
よろしければ、サポートお願いします。