無門関第四則「胡子無鬚」②
無門関第四則についてです。
今回は、最後に注意事項があります。必ず読んでください。
今回は、前回の続きを綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
第一則で、「人や物は、それを眺める人によっては、その姿が大きく変わることがある」ということが書かれていました。
だから、余計なフィルターは、できる限り外して眺めるほうがいいと。
或庵は、ある人間の本質に、達磨を見たように感じた。
そして、もしかしたら、明晰夢を見ているような状態だったため、姿形というフィルターが外れてしまって、その人をストレートに「達磨だ」と認識してしまった。
多分、そういうことが、起ったのだと思うのです。
しかし。
第二則で、「因果を捉え間違えると、無駄に苦しむ」と書かれていました。
或庵は、ある人間の本質に達磨を見た。
これが「果」だとすると、「因」は何なのか。
ある人の本質が達磨であるということが、因なのか。
完全に否定は出来ないようにも思います。
でもこれでは、第一則のように、犬を見た人が「仏性がある」と考える人と「仏性がない」と考える人に分かれることの説明がつかなくなります。
ならば、他に、もっと重要な因がある。
ところで、私は、リンゴの絵は描けますが、ノニの絵は描けません。
リンゴは知っていますが、ノニのことは知らないからです。
ノニというのは、アフリカの果物だそうです。
爆笑問題の太田光は、若い頃、女の子とイチャイチャする夢を見るとき、必ずそれは、彼が女の子を触るのではなく、女の子が彼を触る夢だったらしいです。
おそらくは、女の子の身体を触ったことがなく、その感触を知らなかったせいで、女の子を触る夢を見ることができなかったのだろうと、彼はそう言っていました。
人は、全くの未知のものは、知覚できないのです。
達磨を知らない人は、きっと何を見ても、そこに達磨を見ることは出来ません。
或庵が、姿形が全然違う人に達磨を見たのは、或庵が達磨を、単なる知識としてだけではなく、その本質を、きっと知っていたからです。
或庵が見た対象の中だけではなく、或庵自身の中に、達磨に相通じる何かがあるのだと思うのです。
或庵自身の中に達磨がある。
その或庵が、達磨を秘める誰かを見る。
この二つが揃うことが「因」なのではないか、そして、より大きな因は、「或庵自身の中に達磨がある」ことのほうなのではないかと、私は思うのです。
無門が「一度しっかりと見ろと言うと、その時点で二者に分かれてしまうようで、具合がよくない」と言ったのも、これで説明がつくのではないかという気もしています。
或庵が見た達磨というのは、その対称の中にある達磨であると同時に、或庵自身の中にある達磨でもある、かも知れないからです。
「自分が二つに分かれてしまうようでややこしいことになる」みたいなことなんじゃないかな。
しかし、幾ら或庵が誰かに達磨を見たと思っても、そのことは、「相手もまた悟っている」と確信できる場合以外は、多分口にすべきではないことなのでしょう。
一般的な小学生に、大学レベルの講義内容が前提となる話をいきなりしたら、それが幾ら正しい知識であっても、混乱させるだけなのと、多分似ています。
無益どころか、有害ですらある。
だから、「悟ってない人には、余計なことは言うな」と、頌の中で無門は言ってるんだろうと思います。
まあ、ここに書いた肝の部分である「起きながら明晰夢のような状態になる」は、私は実際に体験はしてないんですけど。
無門は「自分でちゃんと体験しろ」と書いていますが、私はそのつもりはありません。やれと言われても嫌です。
その体験をするために、お坊さんたちは、長い時間をかけて、修行を行うのでしょうか。
そして、自分の実体験で、誰かを見て「ああこの人、達磨だ」と思う。
本当はそこに至って、第四則クリアなのかもしれません。
私は、そこまでは目指しませんが。
でも、第三則から受け取ったとおり、ここまでは、何とか自力で考えました。
「実のある参禅」というのもよく解っていませんが、机上の空論にはできる限りしなかったつもりです。
無門先生には、どうかそれで、ひとつ、お許し頂くということで。
注
「本当はそこに至って、第四則クリアなのだろう」と私は書きましたが、これを読んで、「実際に体験してみたい」と闇雲に瞑想や座禅などを行うのは、絶対にやめてください。
これはダチョウ倶楽部のような、いわゆるフリではありません。
絶対にしないでください。
最悪、精神に何らかの異常が生じ、日常生活に著しく支障をきたす恐れがあります。
これを読んだ方が、ご自分でいろいろやった結果、精神のバランスを崩したとしても、私は、一切責任は負いません。
大体、私自身が、その境地を目指すつもりは、全くありません。
その旨、ご了承ください。
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