無門関第四則「胡子無鬚」①

 胡子無鬚について、あれこれ綴ります。
 現代語訳については前回をご覧ください。

 そもそも、現代に伝わる達磨像には、髭はあります。
 この公案が作られた当時もそうだったはずです。
 現実の達磨には、髭は、あるのです。

 ではなぜ、或庵は「達磨は、なぜ髭がないんだろう?」と言ったのか。

「達磨は、髭がない」ではない。
「達磨は、髭がないと思う」でもない。
「達磨は、髭がないほうがいい」でもない。
「達磨は、髭がなくても不思議はない」でもない。

「達磨は、なぜ髭がないんだろう?」なのです。
(これに関して、最後に追記があります)

 達磨に髭がないことを、不思議に思っているような言い方に聞こえます。

 ひとつ、例え話をします。想像してみてください。
 あなたの上司である課長は、素晴らしい人だとします。
 有能です。性格もいい。上司からの信頼は厚く、部下からも慕われています。見た目もそこそこいい感じです。イケメン課長です。
 そんな課長が、ある日突然、ハゲ頭で出社してきたとします。
 それはなかなか往生際の悪い、バーコードハゲだったとします。
 その日はたまたま風が強い日でした。
 よせばいいのに、ベテラン女性社員が「換気しなきゃ」と言いながら窓を開けたため、そのバーコードが風に煽られてふわふわと踊りました。

 さあ、これを見たあなたは、どう思いますか。
 必死で平静を装いながら、「課長、どうして、いきなり、髪の毛なくなっちゃったの?」って、絶対思うでしょう?
 なぜ、そう思うのか。
 課長がハゲなのが、当たり前の光景ではなかったからですよね。
 この状況で「課長がフサフサだったのは虚像で、本質はハゲで、課長の髪はかくかくしかじかの象徴で」なんて悠長に考える余裕は、普通はないと思うのよ。そんなことが出来る人はちょっと普通じゃないです。
 とりあえず腹筋がやばいもん。早く窓閉めてください。

(※ハゲの人の人格ををバカにする意図はありません。
  私はオペラ座のハゲてるファントムも大好きです)

 或庵は「達磨はどうして髭がないんだろう?」と言いました。
「なくても不思議はない」とは言っていません。
「どうしてないの?」と言っています。
 まあ、ハゲとヒゲは、一文字違うだけで随分違いますけど、とりあえず、達磨に髭がないのは、或庵にとっては、当たり前ではなかったということになります。まずはそう考えるのがいちばん自然だと思う。

 つまり、或庵は、現実の、髭のある達磨像を、ちゃんと認識している。
 その上で、「どうして達磨に髭がないんだろう?」と言ったということになりそうです。

 では、この言葉を、或庵は、どういう状況で発したのか。

 例えば。
 鏡を見たとします。そこには、或庵の顔が写っているはずです。
 それを眺めながら「どうして達磨に髭がないんだろう?」と言った、という状況だったとします。
 和尚さん寝惚けてんのかな、と、普通は思う状況です。
「或庵は寝惚けていた」と解釈すれば、一応話の筋は通ります。

 あるいは。
 或庵が、達磨を彷彿とさせる、とても優れた人物と出会ったとします。
 その人には、髭がなかったとします。
 普通の状態だったら、「この人は達磨ではない」とわかります。
 でも、ちょっと寝惚けているときなら。
「どうして達磨に髭がないんだろう?」
 これでも、一応話の筋は通ります。

 でも、これらの場合は、或庵が完全に目が覚めきった後、この発言を尋ねられたら、或庵は「ちょっと寝惚けとった」とでも言うと思うのです。
 そしてその発言内容を、公式に否定するでしょう。
 その結果、おそらくこの話は、後世には残りません。

 しかし、この話がこうして公案として残ったということは、単に寝惚けていた訳ではないということになります。

「なぜ達磨に髭がないんだろう」。
 この台詞のニュアンスだと、或庵は、「現実の達磨には髭があると認識したまま、髭のない達磨を実際にどこかで見た」あるいは「見たと思った」という印象を受けます。
 私の経験上では、「寝惚けていた」以外でこれが成立する状況は、今のところたった一つしか思い当たりません。

 それは、明晰夢を見ている時です。

 私は、明晰夢は、ほぼ見ません。1回見たことがあるという程度です。
 普段の睡眠中は、だいたい普通の夢を見ます。
 夢の中で、私はいろんな人物に出会いますが、目覚めてから思い返すと、夢の中での人物と、現実での人物では、「同一人物だ」と認識しているにもかかわらず、顔が全然違っていた、ということがよくあります。
 ただし、普段の夢の中では「どうして顔が違っているのだろう?」とは気づきません。
 けれど、これが明晰夢だったら、もしかしたら「どうして顔が違ってるのだろう?」と、夢の中で気づくような気もします。

 なので、もしも或庵が、寝起きではないのに、明晰夢を見ているときと非常に近い状態になっていたとしたら、こういう事態が起きるかも知れません。
 でも、そんなこと、ありうるんだろうか?
 私にはよく解りません。体験したことがないからです。

 いずれにしても、或庵は、「誰か、達磨ではない人に、達磨を見た」というような体験を、「この体験は、これこれこう意味を持つのだ」などとしっかり解釈できるほどの覚醒レベルではない状態で、したのではないか、という気がするのです。

 ここで一旦切ります。続きは次回に。

 追記
 もしも或庵が、このときすでに悟りに至っていたなら、「達磨は、髭がなかった」と言い切っていたような気がします。
 あるいは、例えば、達磨の肖像画を見たときに「これは達磨ではない」くらいのことは言うんじゃないかという気もしています。
 そういう気がするというだけです。
(ちなみに私は、この二つは、どちらも『達磨には本当は髭はない』という意味では書いていません)
 というわけで、私は「或庵は、この時点では、小悟して間もないくらいの頃で、まだ大悟まではしてないんじゃないか」と、漠然と感じています。
 これらは、この下書きを一旦終えた後で言語化されたので、追記という形で記しました。
 なお、達磨と髭については、深掘りする予定はありません。


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