見出し画像

【落語・講談台本】逢魔が辻①

 時は元禄。
 江戸は神田のとある通りに、ちいさな店を営む夫婦がおりました。
 職人堅気の亭主と、愛嬌のある女房が構えたこの店は、その人柄通りの手堅い商いで贔屓も増え、しっかりと通りに根付きまして、子はまだ居ないながらも、二人、幸せに暮らしておりました。

 ところが、この亭主。店じまいの後、いつものように帳簿をつけながら、おかしなことに気づきます。
 残高が、合わない。
 おかしい。実際の残高が少ない。
 この店は、奉公人や女中を雇い入れるほど大きな店ではなく、締まり屋の女房と二人で切り盛していますから、横領などは考えられない。掛け取り以外の代金の受け渡しには常日頃から注意を払っていますから、このしくじりもまた考えにくい。ではなぜ、実際の残高がこんなに少ないのか。

 まさか、知らぬうちに、盗みに入られたのかと、家中を隈無く調べましたが、戸が壊されたような跡は見当たりません。
 そうこうするうち、帳簿のズレは、その後も大きくなり続け、積もり積もって九両二分。これはもう放っておける額ではございませんから、亭主はその夜、寝たふりをして、じっと家の中の気配を窺っておりました。
 すると、確かに戸締まりはしたはずなのに、どこから入ってきたのか、家の中を誰かが動く気配がする。
 亭主は女房を静かに起こして部屋の隅に居るよう促し、部屋を出てゆきました。

 その直後、ドタッ、バタッ、ガラガラガラッという物音と、二人の男の怒号がしばらく響きましたが、そのうち音が止み、声が消え。再び、しん、と夜の静寂が訪れた。
 亭主に呼ばれて恐る恐る女房が向かいましたら、そこに、見知らぬ男が一人、縄で括られ転がされておりました。

 年の頃は、三十路には届かぬだろうといったところでしょうか。
 髷の結い方、着流しの裏地、そして左の頬の刃物傷から、どこか崩れた匂いの漂う男でございました。
 この男、手習所を上がるか上がらぬかという歳の頃から悪所をうろつくすれっからしでございます。これまでも、遊ぶ金のほしさに、ここならたとえ目を覚まされたとて、奉公人も女中もおるまい、何とでもなろうと、偶々目についたこの店に幾度か忍び入っては小口の銭を盗んでおりました。しかし日頃粋がってみたところで、丁半博奕のコマ札を握ってばかりの遊び人だ、見つかってしまえば、あっという間に引っ括られた。
 亭主は、役人を呼びに、番屋に向かうことにいたします。

「縄が解けることはないとは思うが、よくよく気をつけろ。大して強そうには見えんかもしれんが、あれは札付きだ。俺が戻ってくるまで、何があっても決して奴に近寄るんじゃないぞ。わかったな。すぐ戻る」
 こうして亭主は一人、店を出て行ったのでございます。

 残されたのは、いまだ震えの止まらぬ女房と、縛られ身動きのとれない男。
 店から番屋まではいささか距離がございます。亭主が戻ってくるまでには僅かばかりの猶予がある。
 しかしこのままいては、男はいずれお縄にかかるのは避けられません。当時盗みというのは、十両盗めば死罪、十両以下なら入墨の後百叩き、ですが、この入墨が三本目になるとやはり死罪という、今とは比べものにならぬほど、大変な重罪でございました。このまま居ては、最悪、頭と胴が泣き別れになる。なりふり構ってはいられません。
 目の前で震える女に何とか縄をとかせようと、あの手この手で言いくるめようと致します。

「おかみさんすまねぇ。ほんの出来心だったんだ。今夜が初めてなんだ。今までも盗まれてたって? 知らねぇ。それはオレじゃねぇよ。
 ちぃっと前のことだ。大工仕事の最中に、ノミで足ィ怪我しちまってさ。
 それじゃあ仕事にならねえからって、治るまで来なくていいって言われちまってよ。
 だけどさ、おかみさん。あの棟梁ァ、昔っから、出すこたァ舌を出すのも嫌てェくらいのしみったれでね。貯めこんどけるほど貰ってたわけじゃねぇ。その日暮らしで精一杯、日銭が入んなきゃ、干上がっちまう。オレぁもう、二日も飯食ってねぇんだ。
 いつもこの店の前通るたんびに、ああ、あったかそうなおかみさんだなぁ、オレが小さいときに死んだお袋も、顔なんか知らねぇけど、こんなだったかなぁ、って、思いながら見てた。この人なら、もしかしたらこんなオレにも優しくしてくれんじゃねぇかなって、ふらふらっと、思っちまったんだ。
 今夜も、ほんとに、腹ぁ減ってて。最初は本当に、それだけだったんだ。でも、帳場に置かれた銭ィ見たらさ、あぁ、これがありゃ蕎麦食える、腹温もるって思っちまって。そしたらもうどうしようもなくてさ。
 すまねぇおかみさん。本当なんだ。本当に今夜が初めてなんだ。嘘じゃない。ただ、オレは。…すまねぇ。こんなこと今更言われたって、信じらんねぇよな。すまねぇ。おっかない思い、させちまって」

 元々気立てのいい女房、だんだんとこの男のことが、可哀相になって参ります。

「…握り飯、食べるかい?」
「いいのかい? あぁいや、いけねぇよおかみさん。旦那さんにも言われたじゃねぇか。オレみたいなやつには、近づいちゃいけねえって。
 でも、おかみさん、やっぱり、オレの思った通りの人だった。優しい人だなあ。旦那さん、幸せもんだ。うまいんだろうなぁおかみさんの飯」
「…縄、ほどけてないだろ? 食わしてあげるよ。二日もお腹すかせてるなんて、可哀相だし。その代わり、ちょっとでもおかしなことしたら」
「ああわかってる。わかってる。こんなで今更、逃げらんねぇよ。おかみさんが嫌がるこたァ何もしねぇ。恩に着るよ」

 女房は、残り物の飯を握って、男の口元に持っていき、食わせてやることに、いたしました。
 しかし。真面目が取り柄の亭主と違い、廓通いも慣れたこの男、顔に傷があってなお相当な色男でございます。そしてそのことは、男自身が、誰よりもよく、知り尽くしておりました。

「ああ、うめぇなぁ。オレのために、握ってくれた飯、本当にうめぇや。こんな、優しくて、可愛い女房、欲しかったなぁ。
 ああ、すまねぇ。手にくっついた飯粒食おうとしただけだよ。そんな顔しねぇでくれよ。
 何もしねぇよ。怪我なんかさせねぇって。情けかけてくれた人に怪我させるほど恩知らずじゃねぇよ。頼むよ。もう少しだけ食わしてくんねぇか。
 でもさぁ。柔らかい指だな。こんな指の綺麗な女、なかなかいねぇよ。
 もうじきしょっ引かれるってのに冗談なんか言うかよ。本当だよ。 
 へぇ。横向いた首筋も綺麗だ。真っ白で、すうっと伸びてさ。
 この指みたいに、柔らかいのかなぁ。
 ほんとに、旦那が、羨ましいなぁ…。
 あぁ。飯粒、全部食い終わるまで、待っててくれてんのか。
 ふぅん。そうか。あんた、いい女だなぁ。
 そろそろ手ェ引っ込めなよ。言ったろ。何もしねぇよ。
 こんなんじゃさ、何かしたくたって、何もできゃしねぇじゃねぇか。
 いいのか? もうすぐ旦那、役人連れて帰ってくるぜ」

 亭主が役人を連れて店にとって帰したその道を、皆、悠長に歩いて戻ったわけではございません。
 しかし、亭主が息せき切って店の戸を開いたとき、そこには、男も、女房も、二人とも居らず、空の飯びつと、切られた縄と、包丁が一本、転がっておりました。

 まさかあんなわずかな時間にと、あれほど言って聞かせたのにと、亭主は愕然といたしましたが、ここに至ってはもはや後の祭りでございます。
 それでも、自分が女房を残したからと悔やみに悔やんだ亭主、商いの合間を縫いながら女房を方々探し続けましたが、行方は杳として知れない。そのまま三月も経ったでしょうか。

「まだ、見つかんねぇのかい?」
「ああ。俺があのとき、あいつを残して行かなかったら、あの野郎を俺が番屋に引っ張って連れて行ってたら、こんなことにはならなかったんだ。この辺は虱潰しに探したんだけど、どこにもいねぇ。もう江戸にはいねぇんだろうか。だとしたら、店開けたままじゃ探せねぇから、しばらく閉めなきゃならねぇだろうけど、あいつがいなきゃ、店なんかどうだっていいんだ。早いとこ探してやらなきゃ、あいつは」
「なぁ。あのさ」
「何だよ」
「俺じゃなくてさ、留の野郎がさ、こないだ、見た、って言うんだ」
「見た、って、何を」
「…おかみさん」
「女房をか!? ほんとか!?」
「うん。ああ、いや留もさ、見た、っていうか、何か似てんなぁ、って思った、ってくらいで、ほんとにおかみさんかどうかわかんねぇらしいんだけどさ」
「どっちでもいい。どんなに日が経ってても、どんなに変わってても、俺ならきっとわかる。確かめにいきゃ済むことだ。どこだ。どこで見たって?」
「うん。…それがさ」
「何だよ。教えてくれよ。後生だ。頼む。どこだ。どこで見たんだ。どこに居るんだ」
「…根津のさ。岡場所だって」
「え?」
「ああいや、やっぱりさ、似てるってだけで、違う女かも知れねえんだけど、やっぱり気になるって、留が言うもんだから、その」
「岡場所?」
「うん、そう言ってた。留がさ、俺の口からァとても言えねえって言うもんだから、俺は、お前ェが知らねえままなのもつらいだろと思って、それで、伝えとこうと思って…」

 亭主は仕事第一女房一筋の堅物でしたし、女房も、愛嬌はあるが身持ちも財布の紐も堅い女でございましたから、まさかそんなところにいるなんて、亭主は思いもしなかった。わずか三月で何があった。信じられないような思いで、根津の岡場所に足を踏み入れました。

 日が暮れ、辺りが薄暗くなり、提灯に灯が灯り始める。
 灯に吸い寄せられる蛾のように行き交う男どもに、綺麗に着飾り張り見世に並ぶ女達が、声をかけシナを作り客を引く。その奥に。
 白粉を塗り、紅をひき、昼間の往来じゃあまり見ない形に結われた髪に簪を一本さして、あの日姿を消したきりの、今は痩せた面立ちの女房が、一人だけぼうっと虚ろな表情で、座っておりました。

 なんと声をかけていいか解らず、しばらく亭主は、女房をずっと見ておりました。女が次々登楼していく中、その夜女房にすぐに客がつく様子はなく、ずっと、ぼうっと座っておりました。

 格子戸に近づいた亭主は、その気配に、顔を上げた女房と、目が合いました。
「あ…」
「お前、なんで、こんなところに、いるんだ」

「ごめんなさい。あたしが、バカだった。お前さんの言うことだけ、聞いてりゃ、よかった。何もかも嘘だなんてわかんなくて、可哀相だって思っちゃって。金が無くなったら、あいつ、あたしをここに連れてきて、それでまた金を受け取って、どこかに行っちゃった」
「どうすりゃいいんだ。なぁ。どうすりゃいい。幾らだ? 幾らありゃ、俺んとこに帰してもらえるんだ?」
「お前さん。こんなあたしを見ても、そんなこと、言ってくれるんだね。ごめんねお前さん。ごめんね。ごめんね。もう、帰って」

 どうやって家にたどり着いたのか。気がついたら亭主は店の上がり框に腰を下ろしたまま、ぼうっと座っておりました。
 女房が、簪で喉を突き、冷たくなって男の元に帰ってきたのは、その、翌日のことで、ございました。

 何を言っても何を訊いても答えない、何もその目に映していない、起きながら眠っているような亭主のために、隣近所が総出で、坊主を呼んで経を上げさせ、女房を埋葬し、亭主を慰め帰って行き、そうして七日も過ぎた頃。
 一人の男が、亭主を訪ねて、店にやって参りました。
 男は、いまだ虚ろな亭主に悔やみを延べたかと思うと、亭主に言いました。
「今日は、こちらにひとつ、話があって、窺いましたが、まずはおかみさんに、線香の一本もあげさせちゃあ貰えませんか」
 と。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?