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【落語・講談台本】逢魔が辻③

 箱根湯本の旅籠に、一人の男が泊っておりました。
 歳はまだ若い。侍でもなければ商人でもない。湯治の客とは見えぬ丈夫な身体に、さほど上質な生地とも思えぬ着流しをぞろりと引っかけている。しかしどういうわけか金だけはそれなりにあったと見え、もう結構な長逗留となっておりました。

 男の左の頬には、刀傷がありました。しかし、堅気には見えぬけれども、金払いがよく、遊び方も綺麗なこの男を、旅籠の主人夫婦や女中が嫌い追い出すことはなかったようで、用事を言いつけられた時以外は触らず放っておく、男もそれを寧ろありがたがるような塩梅で、いつ出立するともわからぬまま、泊まり初めて一月になろうとする頃だったでしょうか。

 その夜、男の部屋に、女将がやって参りました。
「お客さま、誠に相済みません。今夜からしばらくの間、相部屋、よろしゅうございますか?」
「ん? どうした」
「ええ、本日お泊まりのお客さまが、何やら方角がどうとか部屋の相がどうとかで、どうしてもこの部屋がいいと仰いまして。もうすでにお泊まりのお客さまがいるからと説明はいたしましたが、それなら自分が泊る間だけ、そちらの客に部屋を移って貰うように言ってくれ、その間の部屋代は持つからと、仰るんです。ですが、お客さまも、どうしてもこの部屋でなければダメだと、初めてお泊まりの日に仰いましたでしょう? ですから、ならば相部屋ではどうかと一応お尋ね致しましたら、それならそれで結構、先客には気苦労をかけることになるから、泊っている間の部屋代はまとめてこちらにつけてくれ、と、このように仰るんですが、いかがいたしましょう?」

 傷の男がこの部屋でなければというのには、理由がございました。この部屋の窓からは、旅籠の前の往来と、入り口に出入りをする客がよく見えまして、それは、この男にとって、決して外せぬ条件だったのでございます。 

「どんな客だ」
「お一人のお客さまです。何でも商いで、二三日の内には関所を通られるとのことでしたが」
「へぇ。そうか。関所を。…部屋代は、そっちにつけてくれるんだな?」
「はい、左様に伺っております」
「わかった。相部屋で構わねえと、そう伝えてくれ」
「はい。ありがとうございます。早速そのように、手配致しますので」

「ああ、この度は、こちらの勝手なお願い、聞き入れてくださいまして、ありがとうございます」
「ああいやいや。いいんだいいんだ。別に誰が居て困るわけでもねぇ、部屋代持って貰えるっていうなら、何も言うこたぁねぇよ。そんな隅に固くなってないでさ、短い間だろうけど、まあ気楽にやろうや」
「そう言っていただけると、こちらも助かります。いや、あなたのような方で良かった。どうでしょう。良かったらお近づきの印に、今夜の食事もこちらで持ちますから、お好きに頼んでくださって結構です」
「いいのか? へえ。何だか悪いな。でもまあ、そちらさんがそう言うんなら、遠慮なく馳走になるとするかな。ここの飯は結構うまいぜ」
「そうですか。でしたらそのように、女中に伝えてきます。ではまた後ほど」

 その夜、二人の男は、豪勢な食事に舌鼓を打っておりました。少しずつ打ち解けて参ります。
「本当に俺だけ酒飲んで、いいのか?」
「ええ。情けねぇんですが手前は酒はからっきしで。構いませんからどんどんやってください」
「悪いね。しかし、短い間とは言え、名前も知らねぇじゃ不便だな。なんて言うんだ?」
「ああこれは申し遅れました。手前は、与吉と申します。いろんな品を売り買いしております、まあ、商人です」
「与吉さんね。俺は」
「存じておりますよ。先程、台帳でその、ちらりとね」
「へぇ。…目端が利くんだね、あんた」
「お気を悪くされたら申し訳ない。手前の商売は、この目あってこそでして。今度の旅も、品の買い付けもかねて、大坂まで行くんですがね、あちらでの商売はなかなか大変なんです。江戸とはどうにも勝手が違う」
「大坂か。…一人じゃ大変だろう?」
「ええ。まあ、何をどれだけ買い付けるかにもよりますがね。もし、手に余るような時は、人足を雇うしかないんですが、売値を抑えようと思うと、これがなかなかバカにならない」

「…なあ。与吉さん。ものは相談なんだがね」
「何です?」
「付いてってやろうか?」
「ついて、って 大坂にですか?」
「ああ。大坂行って、荷を担いで戻るの、手伝ってやるよ。何、俺は今、特に何するでもないしさ、あんたのこと、気に入っちまったから」
「それは、こちらとしては願ってもないことですが、通行手形は、どうなさるんです?」
「ここの主に金積めば何とでもなるだろ。旅は道連れっていうじゃねえか。な。どうかな」
「うーん。そちらがどうということではないんですが、ちょっと考えさせて貰えますか」
「ああもちろんだ。ゆっくり考えてくれ。俺は急がねぇから」
「ええ」

 その夜、いつになく早々に酔った傷の男、おかしいないつもはこんなことにはならねえんだがと、隣にのべられた布団に倒れ込んでしまいます。
 与吉は、布団でうんうん唸る男を、先程とは打って変わって冷たい目つきで見やりながら、小さな声で、ぼそりと言った。
「てめぇと道連れ? ごめんだなぁ…」

「ん? 何か、言ったかぁ?」
「いえ何も。ところでねぇ。見たところ、随分お疲れのご様子ですねぇ。だからそんなに酔いが回るんじゃねぇんですか。えーと、ああこれだ。手前の扱う品にね、伊吹モグサがあるんですよ。どうです? ひとつ、試してみますか?」
「へぇ。そりゃ俺でも知ってる有名なやつじゃねぇか。ああいやもう何でもいいや。それじゃ頼もうかな」
「ええ。それじゃ、上だけはだけて頂いて、うつぶせに願いますよ」

 お灸と言うのは、まあ皆さん御存じの通り、モグサをよって患部にのせ、火をつけまして、その熱でもって血行をよくする、という、昔からある療法なんですが、これには幾つか注意事項がありまして、「モグサの量は適量で」とか「直接肌に乗せるより、何か間に挟むほうがいい」とか「飲酒後は控える」とか「満腹時は控える」とか、まあ色々あるわけです。
 熱傷したり、血行がよくなりすぎて身体の調子がおかしくなったりするので、本当は避けなければならないことなんですが。

「本当に随分お疲れのようだ。まあそれだけ見目がよければ仕方もないんでしょうが、お遊びになるのもほどほどになすったほうが、よろしいんじゃねぇですか」
「へっ。そんなんじゃねえよ。ここしばらくは、大人しいもんだ」
「そうですか? でも、ここしばらくは、ってこたぁ、ちょっと前までは随分女も、泣かせなすった?」
「ああ、どうなんだろうなあ。ま、昔のことなんざいちいち覚えてもいねえけどよ、女なんてもんはさ、男に泣かされて一皮むけるもんだろ。だったら、どうせ泣くんなら、その相手は不細工よりゃあ見た目のいい方がいいじゃねえか。そうだろ? 俺だって鬼じゃねぇ、一時でもいい思いはさしてやってるんだ。二世を契るわけでなし、恨まれる筋合いなんかありゃしねぇよ」
「へぇ…そうしたもんで…」

「しかし、灸ってのは、こんな熱いもんなのか」
「ええ、皆さん最初はね、そう仰るんで。でも、そこを我慢なさるとね、良い具合にほぐれてまいりますよ」
「そういうもんか? 何だか、背がひりつくんだが」
「お歳を召した方でもこのくらいは、我慢なさいますけどねぇ…。そうまで仰るんなら、減らしてみますか?」
「ああ、いや、いい。そういうもんなら、いいんだ」

「ま、てめぇはそう言うやな。てめぇにゃ勿体ねぇ逸品だが、数倍は乗せといたから、無駄にすんじゃねぇぞ」
「あー…。何か、言ったか?」
「いえ、何も。ああ、随分酒が回られてるようだが、大丈夫ですかね。女中を呼んできますか?」
「ああ、いや、ああ、でも何だ、気分がわりぃ、何だか、吐き気がする。苦し…たす…」

「やっと効いたか。しぶてぇ野郎だな」
「あのぅ…。お客さま」
「ああ。もう食事はいいから、それ残ってるの、全部下げといて」
「はい、それは、はい、お下げ致しますけども、その…そちらの方、どうなされましたので」
「ああ、少しね。酒が過ぎたみたいだなあ。何、少し横になりゃ大丈夫だろうが、場合によっちゃ、医者呼んでもらうことになるかもしれねぇなぁ」
「…はい、それはもう、言ってくださればすぐにでもそうしますが、その」

 与吉、男を隣に寝かせたまま襖を閉め、おずおずと片付け始める女中の傍に腰を下ろします。

「ああそれから。さっきね。ねぇさんあんた、酒にこっそり何やら入れてたみたいだけどね、あれ、何だったの」
「何って。あれはお客さまが、これちょっと混ぜといてくれって、そう仰って渡したんじゃないですか」
「あたしが? 何か勘違いしてんじゃねぇのかい? あたしはそんなもん渡した覚えはないけどなぁ」
「そんな。確かにお客さまが」
「ああ、それともあれかな。あたしじゃなくて、あいつから頼まれたんだったかなあ。ほんとにあたしからだった? よぅく思い出しておくれよ。誰から頼まれたんだっけ。それとも自分で入れたか? 女中が客に一服盛ったなんて噂が立ったら、この宿これから大変だなあ。どうだろう。思い出したかい?」
「そんな、でも」

「ねぇさん。あたしが言ったとおり、さっき隣で控えて、聞いてたな?」
「…ええ。それは、はい」
「どう思った?」
「どうって、お客さまのことを、どうこう言う立場にはありませんし」
「そんなことねぇだろ。ねぇさん、あいつといい仲じゃねえか」
「…そんなこと」
「隠さなくてもいいよ誰にも言わねぇから。あたしは目がいいんだ。見りゃ解るんだよ。でさ、聞いてたんならわかるだろ。あいつに惚れてついてったら、ねぇさん不幸んなるよ」
「…」
「ねぇさん、この旅籠抜けるの助けてやるからついてこいって言われてないか?」
「…あの」
「誰にも言わねえって言ったろ。安心していい。あのな。まだ騒ぎが大きくなると困るからここだけの話にしといてほしいんだがな。あたしが知ってるだけでも、あいつ、三人岡場所に沈めてるんだよ。沈めた後はそれっきりだ。さっきのあれ聞いて、自分だけは違うって、そう思えるかい?」
「…」

「さて、そろそろ、思い出したか? 誰から頼まれて入れたんだっけな」
「…あちらのお客さまからだったような気がします」
「ああそう。そうなのか。じゃあ、自分で飲んで自分であんなんなったんなら、しょうがないよなぁ。あんたのせいじゃないよ。だからもうこのことは忘れてしまっていい。言ってること、わかるかい?」
「…はい」
「どこも苦界にゃ違いねぇけどさ。この宿はまだましなほうだと思うぜ? さ、そろそろ、それ、持ってかねぇと、女将に叱られるよ。これ少ないけど、とっといて」
「…失礼します」

 与吉は、煙草盆を引っ張り寄せて一服つけながら、ぞっとするような冷たい目で、襖を見つめておりました
「まったく、余計な仕事、増やしてくれるぜ。さて、これから、どうしてくれようかな」

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