無門関第十六則「鐘声七條」
無門関第十六則「鐘声七條」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
本則は、非常に短いです。
「世の中はこんなに広々と自由なのに、どうして、鐘の音がなると、袈裟を着替えるんだろう」
何事にも縛られるなと教えられ、そのことを追求すべく修行している禅僧が、どうして鐘の音に縛られたような暮らし方をしているのか。
多分そういう意味です。
そうねぇと笑いながら相槌を打てば終わってしまいそうな話です。
でも、実際に「じゃあ鐘の音に縛られない暮らし方をしてみよう」と思い立ち実行するのは、相当難しいと思うのです。
例えば、腕時計やスマホを家に追いたまま外出してみる。
一度や二度なら、出来ると思います。
しかし、これを、徹底し、しかも日常として維持できるかどうか。
なかなか、疲れると思うんですよ。
「時を知らせる音が鳴ったら次のスケジュール」という暮らし方をする方が、楽にはなります。考えることがその分少し減るので。
ただ、そうして、漫然と「鐘が鳴ったらごはん」「鐘が鳴ったら座禅」「鐘が鳴ったら作務」と鐘の音に頼り切るより、「そろそろお腹がすいてきたからごはんかな」「お腹がいっぱいになった。座禅をしよう」「使ったお堂を綺麗に掃除しよう」という意識で取り組む方が、多分、得られるものが多いということなんでしょうね。
今まで気づかなかったものに気づくようになる、ということも起りうるでしょう。
自分で考え抜いて、行動のひとつひとつに自分なりの裏付けがつけられたら、納得もしやすいし、身につきやすいですしね。
その結果「時を知らせる鐘の音を鳴らして、それを目安に行動しよう」という結論に至っても、それは「最初からぼーっと鐘の音に従って動く」とは多分違うものになるのだろうと、思います。
ところで。
鐘の音が聞こえたら、袈裟を着替えて次のスケジュールにうつる。
何ということもない、日常です。
しかし、いろいろ考えると、結構難しい問題に行き当たったりします。
「鐘の音が鳴る。それが聞こえる。別に不思議なことじゃないだろ」
普通はそう思います。実際不思議なことではないです。
しかし、例えば、自分が何かに夢中になっているとき、外部の音や声が一切聞こえなくなること、よくあります。
呼ばれているのにまったく気づかない、とか。
ということは、「音が自分の方に届いたら、常に聞こえる」わけではありません。
では、自分がその音を聞こうと思うから、聞こえるのか。
しかし、音が実際に発生しなければ、その音を聞くのは無理です。
そもそも、音というのは何か。
鐘の音でいうなら「鐘が何かで叩かれたときに発生するもの」です。
ということは、「鐘の音は、鐘が叩かれたという事実を推測させる、有力な要素である」という言い方も出来ます。
鐘の音を聞いたら「事務方の僧侶が鐘を叩いたんだな」と普通は思います。
しかし、極端な話、いっこく堂のような能力のある者が「かぁーん」と叫んだ可能性も、ゼロとは言えないじゃないですか。
サルが石で鐘をカンカン叩いて遊んだ可能性だってゼロではないです。
「いやそんなことはないだろ」と、思うでしょうか。
まあ私もそう思います。
でも、「どうしてそんなことはないと言い切れるの?」と訊かれたら、納得のいく回答を出せる人、居ないと思うんですよね。
「今までそんなことは起らなかった」は「絶対に起らない」とは同じではないのですよ。
「音は耳で聞こうとすると、解らなくなることがある。
眼で聞く方が、近づける」
と無門はいいました。
鐘が叩かれたことを知る方法は、音を耳で聞くことだけとは限りません。
この場合は、誰かが鐘を叩いているところを見るほうが、より確実です。
耳は音を聞く器官。
目は物を見る器官。
しかし、目が音を認識する助けをすることもある。
こういうことは、他の五感全てで起こりうるのでしょう。
耳が質感を感じることもあるでしょう。
触覚が物を見ることもあるでしょう。
目が臭いを認識することもあるでしょう。
鼻が味を感じることもあるでしょう。
他にもいろいろあると思います。
違っているけれど、どこか繋がっている。
さらに発想を飛ばすと、「自分が大きな信頼を寄せている先人の教え」にも、似たようなことが言えるのだろうと思います。
伝えられた戒律を、「ただ漫然と守るだけ」でいいのか。
戒律を守りながらも、その真意を、文字や言葉や行動の中に探そうとすることも重要なのではないのか。
さながら、耳だけでなく目で音を聞くように。
人は、間違いやすく、迷いやすいですからね。
目的地に至るルートは、ひとつではありません。
時には疑い、時には視点を変え、臨機応変に生きられると、本当の意味で楽になれそうな気がします。
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