無門関第十則「清税孤貧」

  無門関第十則「清税孤貧」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 そもそも、清税という僧のことは、書物に殆ど残っていないらしいです。完全に詳細が不明。
 なので、もしかしたら、「清税」というのは、あだなかもしれませんね。
 昔、ガリガリに痩せている人のことを「骨皮筋右衛門(ほねかわすじえもん)」と言ったり、くそ真面目な人のことを「石部金吉(いしべきんきち)」と言ったりしたんですが、そういう類いの呼び名かもしれません。
 清く、手に持てるものを手放している人。だから「清税」。
 そう解釈すると、しっくりきます。
 もしも実名だったら、最初から、僧ではなく清税と書いたでしょうし。

 曹山は、曹洞宗を開いた人です。
 とても優れた僧だったのだと思います。
 曹山なら、清税と会えば、その人となりが、大体理解できたでしょう。

 曹山は、清税を、「ただの貧者ではない」とおそらく一目で見抜いた。
 だとすると、清税の「貧しい私を助けてください」は、言葉通りの意味ではないことになります。

 ならば、清税のこの言葉の目的は、多分「曹山から教えを得ること」ではなく、「曹山の眼を試すこと」のほうに、あったのでしょう。

 自分を、見た目通りの貧しい凡人ではないと、見抜けるか。
 そして、どういう返答をするのか。
 その身ひとつで、曹山に「挑んだ」と見るべきシーンだと思います。

 果たして、曹山は清税を、ひとかどの僧侶だと見抜きました。
「青原の名酒を三杯も飲み干しておきながら」
 この言葉は、多分、ある種の比喩です。

 普通に読んだら、「青原という銘酒の産地の美酒を、三杯も飲んでおきながら」という意味です。
 しかし、青原というと、禅の世界では、六祖慧能の弟子である青原行思を連想させますし、また、「三」の数字は、大蔵経の三蔵を連想させます。

 つまりこれは、「素晴らしい仏の教えをたっぷりと会得しておきながら」という意味です。
「貧しい凡人? あなたが? だから助けて欲しいと思ってるって?
 まーたまた、ご冗談を」てな感じでしょうね。


 で、どうしてこういう問答が成立するかというと、要は、「清税が、徳が高い僧侶に見えない」ということだと思うのです。
 第九則に書かれているように「聖者が会得をしたら凡人になる」のです。
 簡単には、見抜けなくなる。
 見抜けるのは、やはり、悟りの境地に至っている人です。

 酒を飲むことは、誰にでも出来ます。
 酒を飲んだ人は、飲んで間もないうちは、酔っ払って、酒を飲んでいない人とは違う言動をしますから、「あなた、お酒飲んだね」と、多くの人に解ってもらえます。
 これが「知っている」状態のときです。
 しかし。
 それが、吸収されて、酔いがさめてしまったら。
「ほんとに飲んだの?」と、解ってもらえない場合が増えてきます。
 しかし、酒を飲み、酔いを覚ました人は、一見素面のときと全く変わらない言動をしているように見えますが、よく観察すると、ほのかにお酒の香りを漂わせています。だから、酒を知っている人が見れば「この人、お酒飲んだ人だ」と解ります。
 これが「会得した」状態のときです。

 清税の飲んだお酒はどこにあるのか。
 それはもはや、清税に吸収されて、清税自身になった。
 きっと、そういうことなのです。
(※現代医学の観点で考えると、酒は一度吸収分解された後、最終的には体の外に出て行ってしまいますが、無門の意図をくみ取るならば、こういう理解の仕方になるのだろうと思います)

 清税は、曹山は自分の有り様を見抜けるかどうかを試したのです。
 見抜けないようなら、曹山はたいしたことがないと、引導を渡してやる。
 この気概を「項羽のようだ」と無門は評したのでしょう。

 そして、見抜ける曹山もまた、優れた禅僧なのです。

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