無門関第十四則「南泉斬猫」③

 無門関第十四則「南泉斬猫」について、綴っています。
 公案の現代語訳は、こちら。

 今回は、趙州の行動についての考えをメインに綴ります。

 外から戻ってきた趙州は、南泉から、この日の出来事を聞きます。
 そしたら趙州は、履いていた靴を頭に乗せて、スタスタ出て行きます。
 これをみて、南泉は「趙州があの場に居てくれたら、猫を殺さずにすんだのに」と呟きます。

 これ多分、ヒントの1つは、「趙州がこの日、外から帰ってきた」という点です。
 この日趙州は、「寺の外に出ていた」。
 つまり、俗世から隔絶されていた他の弟子達に比べると、若干、俗世との繋がりがあった。そういう見方ができるわけです。

 寺の中に籠もりきりの弟子は、「南泉と自分」を「師匠と弟子」という関係性でしか見られません。
 これに対し、寺の外に一旦出て、再び戻ってきた趙州は、「南泉と自分」を「師匠と弟子」という寺の中での関係性の他に、俗世における関係性でも、捉え直すことが、比較的容易になるだろうと思うのです。

 師匠と弟子。上の立場と下の立場です。
 寺の中だけにいるうちは、この関係性はなかなか壊せないでしょう。
 けれど、あのとき、「師匠と弟子」は「猫を殺そうとする人と、それを諭そうとする僧侶」でもありました。
 これは、下の立場と上の立場です。
 あのときは、そういう関係性として、捉え直す必要があったのです。

 一番下にある靴。
 一番上にある冠。
 通常この位置関係はなかなか壊せません。
 しかし、このときは、壊して捉え直さねばならなかった。
 靴を、冠の位置に、持ってくる必要があったのです。

 そして、部屋から出て行きます。
 寺から出て、広い社会の視点に立つために。

 いつか、師匠の元を巣立つ時は来る。
 たとえ師匠であろうと、誤りだと思ったことは、一人の禅僧として、自分の教わった禅でもって正す。
 そして、自分の禅を、世に活かしていく。
 これが、趙州の行動の意味だと、私は思っています。
 そして、南泉も、これを感じ取ったからこそ、「趙州だったら、きっとなんとかしてくれた」と思ったのでしょう。

 そういうわけで、趙州の行動の意味を、端的に言えと言われたら、私なら「盲導犬の最終試験」となるわけです。意味は説明しません。

 ところで。
 趙州があの場に居たら、何て言ってたんでしょう。
 きっと唯一の正解があるわけではないし、想像するしかないんですけど。
 頌の内容に添って考えるなら、こんな感じかな。

南泉「何か表せ。表せたら猫は助ける。表せねば猫は斬る」
趙州「言い表すために、その刀が要ります。
   言わせたければ貸してください。終わったらちゃんと返しますから」
 刀を受け取ります。
 ここはちょっと頑張って言いくるめて、刀をゲットしましょう。
南泉「渡したぞ。さあ言え」
趙州「まずお前がその猫を使ってお前の禅を示せ。
   そうすればお前の命を助けてやる。
   御仏の心に背くことをやったら、お前をこの刀で刺し殺す」
 これでチェックメイトじゃないですかね。
 きっと南泉は猫を返してくれたと思う。ダメ?

 他にも、一般庶民相手のケースだったら、こんな論法はどうでしょうか。
「そのまま猫を殺せば、死後あなたは畜生界に堕ちます。
 そして、来世は、もしかしたら、猫に生まれ変わります。
 今、あなたが捕まえているような猫に。
 そしてあなたのような人から、そんなふうに殺されるでしょう。
 その道筋を、今、変えてみたいと、思いませんか?」
 根っからの悪党相手だと、ちょっと弱いかも知れませんけど。

 いろいろなやり方が、あるんだと思います。

 ちなみに。
 原始仏教は、基本的に殺生を戒めてはいますが、どうしても避けられない正当な理由による殺生まで厳格に禁じてはいなかったはずです。
 例えば、猟師や漁師が、獣や魚を仕留めたりするようなケースとか。

 今回の南泉の猫殺しは、どうでしょうね。
「人や大型動物を殺すよりはマシだけど、でも、動物を殺すのはねぇ」という感じでアウトでしょうか?
 それとも「一殺多生の慈悲の心でもって、猫一匹の命を多くの仏僧の礎とする」みたいな感じでセーフでしょうか。
 一殺多生という考え方は、大乗仏教の経典に書かれているそうですが、詳しくは知りません。
 いずれにしても、あくまでも個人的な想像です。

 しかし、この部分を、歪に曲解したのが、オウム真理教です。
 テロリズムの言い訳に使うのは、どう考えてもひどいでしょう。
 知識や技術や思想は、現実から乖離させると、暴走することがある。
 だから、社会から隔絶させきってはならないのです。

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