無門関第三十八則「牛過窓櫺」①

 無門関第三十八則「牛過窓櫺」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

「ウミガメのスープ」みたいな公案だなあというのが第一印象でした。
 まあ、時系列的には、ウミガメのスープがずっとずっと後に考案されているので、この感想は厳密に言えば変なんですけど。
 こういう感想は「それが誕生した時系列」ではなくて、「それらを自分が知った順序の時系列」に添って生まれるのかもしれませんですね。
 自己弁護はこの程度にしておくとして。

「ウミガメのスープ」は、一般的には水平思考パズルと呼ばれています。
 設問は一見不可解にしか思えない状況であることがほとんどです。
 そこから解答すなわち状況の真相に一発ノーヒントで至れるのは極めて稀です。視点、思考の類い希なる柔軟さが回答者に備わっていれば可能となる場合もあるでしょうが、大抵はそこから、出題者に対して質問を重ねていくことで、真相を導き出す、という流れになります。

 無門も、そうしろと言ってます。
 いろんな角度から眺め考えて、ズバリ見抜いて、ズバリ言えたら、あらゆる恩に報い、あらゆる衆生を救えるだろう。
 出来なきゃとりあえず、尻尾についてじっくり考えてみろ、と。

 一発で解らないなら、とりあえず訊ねてみるしかないわけですよ。
 ウミガメのスープみたいに。
「尻尾は、牛にくっついていますか?」
「尻尾は、普通の尻尾と何か違うところがありますか?」
「尻尾は、外れることがありますか?」
「尻尾の数は、ひとつですか?」
「尻尾は、形や大きさが変化することがありますか?」
「尻尾は、色が変わることがありますか?」
 しかし公案は、ウミガメのスープとは違い、これらの質問に答えは返ってきませんから、非常に難しい。

「牛はずっと歩き続けていますか?」
「窓の外の道はずっと続いていますか?」
「窓はずっと開いていますか?」
 考えられることは、いろいろあるわけです。

 まずは、この、水平思考を身につけることが出来るだけでも、いろんなものが大きく違ってくるんじゃないかと思うのです。
 いろんな角度から考える。
 いろんな立場に立って眺めてみる。
 関係がなさそうに思えるものでも、捨てずに考えてみる。
 これが出来るようになると、今までよりも、ずっと他人の役に立てる自分になれるような気がします。
「自分の力で切り開いてきた」とだけ思い込むのではなく、父母や世間や仏さまの恩が身にしみるだろうし、誰かを助ける際にも、より効果的にできるようになるでしょう。


 ではぼちぼち、本則の内容について、考えてみようかと思います。

 水牯牛は、牝牛あるいは去勢牛です。
 畑を耕すのに使われます。人間に仕えて働く動物です。
 去勢牛は、牡牛に比べると、気性が穏やかです。

 去勢され、他のオスより、気性が穏やか。
 戒律を守って欲を抑え修行を積む僧侶の見立てのような気がしてきます。
「百丈の弟子である潙山霊祐は、自分のことを水牯牛と称していた」という逸話もあるようですから、この公案に禅僧が触れたら、まずはこの見立ての構図がさっと彼らの脳裏に浮かぶのかもしれません。
 そこから転じて、自身のこととして考えると、モアベターでしょうか。

 窓を通り過ぎたのは、頭、角、四つの蹄、と書いてあります。
 そもそも角って、頭の一部じゃないんだっけ。
 まあそれはいいとしても、原文で使われている単語、どうして「前脚」「後脚」あるいは「四肢」じゃなく、「四蹄」なんだろう。これ「前脚と後脚」あるいは「体全体」などと意訳してある訳文がほとんどなんですけど、「蹄」は普通に読めば「ひづめ」ですよね。

 頭。角。蹄。
 食材に使えない部位ばっかり通り過ぎてるんですよね。
 これ、放り投げて捨てられてるんじゃないの?
 明らかに食材になりそうな部位は、通ったと書かれてないんです。

「頭も角も蹄も通り過ぎたけど、なぜか尾は通り過ぎない」
 もし、食えない部位が通り過ぎている、という法則ならば、そりゃ尾は通りすぎないですよね。
 尾は食えるもん。牛テール。美味しいスープや煮込み料理になります。

 では、本則中、どうして胴体は無視されているのに、尾はがっつり注目されているのか。
 まず、水牯牛の状態と、それを人が食うか食わないかの組み合わせは、ざっと以下のようになるだろうと思うのです。

①肉があまりついていない+人は食えない:頭・角・蹄
②肉がみっちりついている+人が食う:胴体・足
③肉があまりついていない+人が食う:尾

 ①と②に関しては、さほど意外性がないです。
 だけど、③に関しては、かなり意外性が大きくなるように思います。
「えっ? 食うの? どこ食うのよ?」と、まあまあ驚いちゃう。
「捨てられるかと思ってたのに、捨てないの?」と。
 だからことさら注目されてしまう。そういう構図のように感じます。

 つまり、この公案。例えば、
「死んだ水牯牛の魂が、死後どこかの部屋で、窓から自分の体の行く末を眺めるの図」
 だと解釈すると、意味が通ってしまうわけです。
 少なくとも私にとっては。

「牛は生きていて自分で歩いている」なんて、どこにも書いてないですもん。
 それに、この公案を作った五祖法演は、「倩女離魂」の公案を作った人でもあります。
 だったら牛の魂と肉体を分ける状況を想像して読んだっていいじゃない。

 ところで、公案の内容に関する考察の冒頭で、私は「水牯牛は僧侶の見立てであろう」と書きました。
 ならば、頭・角・蹄も、胴体も、尾も、やはり何かの見立てであろうと考える必要があります。
 ではそれは何なのか。
 それについては、次回以降に綴ります。

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