無門関第二十六則「二僧巻簾」

 無門関第二十六則「二僧巻簾」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 昼食前、やってきた二人の僧侶の前で、法眼が簾を指さした。
 二人の僧侶が、共に簾を巻き上げた。
 そしたら、法眼が「一人はよし、一人はダメ」と言った。

 この公案を読んで、まず思い出すのは、十一則の趙州と庵主のエピソードです。
 同じ人からの同じ言動に対して、同じように応じたのに、一方を良しとし、一方を良しとしなかった。
 いろんな部分が似てます。

 しかし、今回のケースは、趙州と庵主のエピソードとは違う部分もあります。そして、それが、ちょっと問題なんじゃないのかなあと、個人的には感じるのです。

 話の流れからすると、今回法眼は、二人の目の前で、「一人はいいけど一人はダメ」と言ったのだと思います。
 一人一人に向き直って「あんたはよし」「あんたはダメ」と言ったのですらなさそうな感じです。
 つまり、二人並べて「どっちかは合格。どっちかは不合格。はい帰っていいよ」と言った、というイメージなんです。

 これ、言われた方は、かなり困惑すると思います。

 趙州と庵主のエピソードは、庵主はそれぞれ「自分の答え方を、趙州が是とした(あるいは、否とした)」とちゃんと知らされます。
 そして、庵主が別人であるなら、「同じ答え方をした別の庵主に、真逆の評価が下されている」ということは、二人とも知りません。知っているのは趙州だけです。

 けれど、今回のケースはそうじゃない。
 二人同時に知らされているのですから、同じように動いたはずなのに、そこに真逆の評価が下されたことを二人とも知ります。
 しかも、自分がどちらの評価なのかは知らされません。
 この2点が、趙州と庵主のエピソードと、決定的に違う点です。

 どちらのエピソードにおいても、言われた方は、悩み考えるだろうとは思います。
 けれど、その考え方はもしかしたら、方向性がかなり変わってしまうんじゃないかという気がしてならないのです。

 趙州から評価を下された庵主は、自分の答え方を振り返るとき、それを照らし合わせる基準を、仏法に求めるでしょう。
 けれど、今回法眼に評価を下された二人の僧侶は、「どちらが合格でどちらが不合格だったのか」を知るところからまずスタートしたくなるに違いないので、その結果、相手を自分と比較せずにはいられないような気がするのです。

 仏法ではなく、隣の僧侶と自分を引き比べる。
 そして両者の間に、優劣を探す。
 そうせずには居られないでしょう。
 そしてそれは、なかなかやめられなくなってしまうに違いないのです。
 そのときの二人の行動はほぼ同じで、その違いを探そうとしても簡単には見つからないからです。

 これって、いいことなんでしょうか?

 同じように見えても同じものはない。
 ならば探せば違いは見つかるのかも知れません。
 でも、今回のケースは、これの従来の意味とは少し違います。
 とんでもなく偉いらしい僧侶が、「片方は『成功』。片方は『失敗』」と、二人の目の前で、善悪という基準で優劣をつけたからです。

 人によっては、この公案のこのくだりを「二人の僧侶に優劣をつけたという意味ではなくて、物事には何かを得るときには何かを失うことがあることが常であるという喩えであって」という読み方をする人もいるのかもしれませんが、もし無門の意図がこれだったというのなら、最初からもっと適切な喩えを選んどきゃいいじゃんと思う。いろいろあるでしょ他にも。
 こういうズレが起るから「一言でズバリと喩えろ」というの、私あまり好きじゃないんですよね。
 話戻します。

 法眼は、優劣をつけるなと法典の受け売りを教える傍ら、優劣を競い合えと態度で教えている、というようにしか、私には見えないんですが、そういう感じ方をする私がおかしいんでしょうか?
 法眼って、何かすごく偉いお坊さんみたいなんですけど、だったらなおのこと、こんなことしちゃダメでしょ。
「偉いお師匠さんのやることなら、きっと深い意味があるに違いない」って、下っ端はどうしても思うんですから。
「言われなくても簾を上げる、って出来なかった時点で二人ともダメ」と言われるほうが、まだ納得がいきます。

 トリッキーな指導の仕方をする自分に悦に入ってるうちに、内心「簾くらい自分であげろや耄碌ジジイ」とか思われるほど嫌われなきゃいいですけどね。
 趙州の真似でもしたかったのかな。
 昔、長嶋茂雄の真似して、擬音語で選手を教えようとしてスベってた、どこかの監督みたい。名前は忘れました。
 形だけ真似すると盛大にスベる。肝に銘じたいところです。

 あるいは。
 昼飯前だったのが、全ての災難の始まりだったのかもしれない。
 やっぱりね、人間、腹減りすぎるとダメよ。
 ごはんはちゃんと食べましょう。
 そして、空腹でイライラしてそうな人には、迂闊に近寄らない。
 君子危うきに近寄らずです。
 …この公案は、絶対こんな話じゃないですね。すみません。

 さすがにこんな締め方はないだろうとも思うので、ちょっと頌について触れておきます。

 二人のお弟子さんに簾を巻き上げさせた。
 窓からは広い空が見えます。
 この時点で、一応法眼の目的は達せられていると言えます。
 そのために簾を上げさせたのでしょうからね。まさかお弟子さんたちのあげ足を取ってやろうと思って言いつけたわけではないでしょ。
 だったら、その途中の「どんな巻き上げ方をしていたか」は、比較的些細なことであって、そこにこだわるということは、ある意味では平常心を失っていると言えなくもない。
 無門はこの辺りのことを「法眼の失策」と捉えているのかも知れませんね。

「終わり良ければすべて良し」とでも思えればよかったシーンなのかもしれません。
 考えてみれば、昔の日本の諺には、公案にまあまあぴったりだなと思うものが結構ありますね。

 そういうわけで、こういう心境の法眼が眺める空は、もしかしたら禅の「空」とは違うものなのかもしれない、とも無門は言っていますが、なかなか手厳しい。
「気に入らない巻き上げ方をした」程度の風など入り込まないくらいの充実した悟りを目指せということなんでしょうけど、国師ですら至れない境地、ほんとに人が至れるんでしょうか。
 理想は高い方がいいとはいいますけど、ねぇ。

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