白猫
数年前、自宅の庭で飼っていた犬が死んだ。それ以降、うちの庭に猫が出入りすることが増えた。
野良猫のこともあれば、近所で飼われている猫のこともある。
一年ほど前に初めて見かけた白猫も、そんな猫たちの中の一匹だった。
頭からしっぽの先まで真っ白なその白猫を、一目見て私は、野良の白猫とは珍しいなと思った。
野良だと思った理由は五点。
首輪をしていないこと。痩せこけていること。薄汚れて毛づやが悪いこと。目つきが鋭いこと。そして、左後足に大きな怪我をしていたことだった。
白猫は足をやや引きずりながら歩いていた。もう長くはないかもしれないと感じた。それほど白猫の状態は悪かった。
すると、白猫が私を見た。しまったと感じた。この辺りの猫は、野良猫も飼い猫も、(飼い猫は飼い主以外の)人間を警戒している。こんな状態で私からの逃走に体力を使わせることになるのは気が咎めた。
しかし、白猫は、意外にも、私に近寄ってきた。
初対面の人間である私の足元に、にゃあんにゃあんとなきながら体をすりつけ、ひとしきり私から頭や頬や喉を撫でられた後、立ち上がったかと思うと、後ろ向きで家の壁にぶしゃっとおしっこを吹きかけるという、想像以上の厚かましさを発揮した。
この地域で、見知らぬ人間を全く警戒しない野良猫を、私は生まれて初めて見た。
もしかしたら、子猫の頃、人間に大切にされた経験があるのかもしれない。
その白猫が、うちの壁にマーキングをする際に、タマがついているのが見えた。
オス猫だなと思った。
それからその白猫は、数日おきに姿を見せるようになった。
相変わらず痩せていて、足の怪我の痕が痛々しかった。
しかし、そんな状態ながら、白猫は意外にもしぶとく生き延びていた。
人間を怖がらない性格が、いい方向に働いているのだろうと思った。
その数か月後、久しぶりに姿を現した白猫は、見違えるほど綺麗になっていた。
痩せてはいるが少しばかり肉付きが良くなり、毛づやが良くなり、足の怪我の痕はすっかり消えていた。
いつものように撫でてやりながら、怪我もよくなったね、よかったねと話しかけた。白猫は、にゃあんにゃあんとないた。
私の足元にすりすりと体をすりつける白猫を見ながら、あれっ、と思った。
タマがない。
あの時は確かにあったものが、なかった。
避妊手術を受けさせられたのかなと思った。
しかし、そう思い顔を見ても、耳は切られていなかった。
「お前、どこかで飼われてるの?」
訊いたところで答えが返ってくるわけではないけれど、そういうことなのだろうと解釈した。
あまりにも痛々しい姿を見て、自分が飼う決心をした誰かが家に入れ、餌を与え、洗ってやり、病院に連れて行き、手術を受けさせた。
それが、いちばん想像しやすい筋書きだった。
白猫は、人間の言葉の意味を、理解しているかのようだった。
おいでと言うと近づいてくるし、ごめんね食べ物はあげられないんだと言うと、催促するような声を出すことなくのんびり撫でさせてくれる。
庭で寛いでいるところに「車を今から動かすから危なくないところに居なさい」と言ってから運転席に乗り込んだら、門扉の上に座りこちらを見ていたこともあった。
あるとき、さび柄の野良猫(こちらは警戒心丸出しの野良猫らしい野良猫だった)と喧嘩していたので「仲良くしなさい」と声を掛けたら、その瞬間から以降、私の見ているところでは喧嘩をしなくなった。姿の見えない遠いところで猫同士ふぎゃふぎゃやり合う声が聞こえることがあるが、庭では、その時を最後に一度も白猫の喧嘩を見ていない。さび猫とやや離れて寛いだり、追いかけ合ったりしている。
不思議な猫だと思った。
数日前のことである。
家族総出で、雑草の除草をしていたら、白猫が現れた。
人間のことは全く怖がらないのに、人間が持つビニール製のゴミ袋のガサガサいう音にはいちいちビクリビクリと警戒態勢に入る白猫の姿が可笑しかった。
これは怖いものじゃないよと皆で笑いながら話しかけていたら、隣家の奥さんがこちらにニコニコと近寄ってきた。
隣家のご夫妻は二人とも猫好きで、かつては自宅で猫を飼っていた人たちだ。
奥さんは、座ってのんびり毛づくろいをしている白猫の姿を笑顔で眺めながら、母と立ち話を始めた。
私は挨拶を済ませ、少し離れた場所の除草に取り掛かった。
十数分ほど後、母が立ち話を終えて戻ってきた。
彼女たちは、ずっと白猫の話をしていたらしかった。
母の話によると、白猫の怪我を見かねて手当をし、病院に連れて行ったのは、その奥さんだった。
決して飼っているわけではないから、敷地には入れないようにしてたけど、怪我がひどくて可哀想でねと、その奥さんは言ったそうだ。
赤チンキを塗ってやり様子を見ていたが、結局は病院に連れて行き、最終的には避妊手術も受けさせた、ということだったらしい。
なるほどねと話を聞きながら除草を続けていたら、母がよくわからないことを言い出した。
「子猫も2匹ばかり産んだみたいなことを言ってたよ」
「乳首も張って、可哀想だったけどとか」
「え? あの猫、メスだっけ?」
思わず訊き返した私に、母は「そうじゃないの? 私はあの猫をちゃんと間近で見たことがないから、わからないし、てっきりそうだと思って話を聞いてたけど」と答えた。母は猫があまり好きではない。
そうだったのだろうか。メスだったのだろうか。
だとしたら私が最初に見たあれは、見間違いだったのだろうか。
そうかもしれない。
写真に撮ってあるわけでもないので、もはや確認は不可能だ。
悩む私の傍に、白猫が近づいてきた。
いつものように、しゃがむ私の足元に、体を擦り付けてくる。
そのとき、白猫のおしりが見えた。
そこには、タマがついていた。
あれ、タマがある。やっぱりあったんだ。見間違いじゃなかった。
あれっ、でも、じゃあ、あのとき、タマがないと思ったのは、あれは何だったんだろう? あのときは、確かにタマが消えてたのに。
軽く混乱しながら、頭や頬を撫でる私の目の前で、白猫は、初めてごろりと横になり、お腹を見せてきた。
白猫は、体を撫でられても嫌がらなかった。
撫でながら、お腹を見た。
メスのような乳首が見えた。
「お前、オスなの? メスなの? どっちなの?」
白猫は、何も答えなかった。
刈った草を集めてゴミ袋に詰めていたら、白猫がさび猫と庭で追いかけっこをしているのが見えた。
これを書きながら、今でも混乱したままである。
白猫は、二匹いる。オスメス一匹ずつ。これがいちばん合理的な解釈なのだろう。
しかし、真っ白な白猫が二匹も野良でいることがそもそも珍しいのに、その二匹が、二匹とも、同じような体格と瓜二つの顔と声で、同時期に同じ個所に大怪我をし、しかし同時期に快癒し、二匹ともが野良猫にあるまじき人懐こさで、しかし二匹同時に現れることはなく、一匹ずつ現れる、そんなことがあり得るのだろうか。
かといって、では、やはり白猫は一匹しかいないのだとすれば、猫のタマは出たり引っ込んだり、無くなったのに生えたりするのだということになってしまう。そんなことは、先の仮説以上にあり得ないだろう。
しかし、今まで何度か間近で見て触れてきたあの白猫に、別の個体が混ざっていたなんて、私にはとてもじゃないけれど信じられないのだ。
あの白猫は、いったい、何なのだろう?
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