禅箴 現代語訳と考察

禅箴

 規則に従い真っ直ぐに守るのは、縄もないのに自分を縛るようなもの。
 何にも縛られず好き勝手に振る舞うのは、外道や悪魔と変わりがない。

 心を静かに澄ませているだけでは、何も照らすことのない邪禅となる。
 心に思うまま傍若無人に振る舞えば、深い穴に落ちてしまう。

 明晰かつ聡明であろうとすれば、それが枷となり、自らの首を絞める。
 善や悪を考えることが、天国や地獄に繋がる。
 仏や法にこだわれば、二重の鉄囲山に囲まれることになる。

 何かの念が起っても、そこからすぐに覚めるのは、精魂の無駄遣い。
 じっと動かず、それを見つめ続けるのは、死人の努力だ。

 前に進もうとすれば、法や真理を見失う。
 後ろに退こうとすれば、宗旨に背く。
 進みも退きもしないのは、生きながら死んでいるのと変わりはない。

 さあ、言ってみろ。
 どのようにして、実践するか。
 努力して、今生で宿願を果たせ。
 先の業を、後に持ち越してはならない。



考察

 こんなの、
「安全靴を履いていると重くて急いで走れない。
 安全靴を履かないと怪我をする。さあどうする」
 って言われてるみたいなもんでしょ。

「怪我するかもな」っていう状況の時だけ安全靴を履いて、普段は普通の靴を履いてりゃいいだけの話。

 正しい在り方がひとつしかないと思うから迷うんでしょう。

 あるときは規則に従い。
 あるときは自由に。
 あるときは心静かに。
 あるときは思うことをし。

 あるときは法に従い。
 あるときは本性に従い。
 ときに進み。ときに退き。ときに休む。

 これすべて、臨機応変に生きるということ。

 多分これが解っていないと、「自分の『正しい』在り方」を、例えば我が子に強いて、子を苦しめることになる。
 そしてその子が、やっぱり、されたとおりに自分の子にすることになり。
 延々と苦しみが引き継がれる。
 あるいは、子や孫じゃなくても、身近な誰かを、そんなふうに苦しませることになるかもしれない。

 ということは、同じように、誰かから自分が、不要な何かを押しつけられて苦しむこともある、ということでもあるわけで。
 どこかでその悪循環を切りたいのなら、まず自分のところで断ち切りましょうと、本来はそういう話なんだと思います。
 ただ、それでは「他人のことなんか関係ない」という感覚の人には通じないので、「過去生・現世・来世」みたいな概念も含めた、「他人じゃなくて自分が苦しむよ」という話にしてあるんじゃないのかなと。

「どちらでもいい」が多い方が、「これはこうに決まってるでしょ」という考え方より、頭は悪そうに見えるかもしれませんが、楽には生きられるかもしれません。そういう話なのだろうと感じました。
※「どちらでもいい」は「どちらともいえない」とは違います。

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