無門関第七則「趙州洗鉢」現代語訳

公案現代語訳

 趙州和尚に、ある僧が問うた。
「私は、この寺に新しく入ったばかりです。どうか教えてください」
 趙州は言った。「粥はすすり終わったか。まだか」
 僧は言った。「粥はすすり終わりました」
 趙州は言った「使ったお椀を洗っておきなさい」
 僧は思いを巡らし、そして、気づいた。

評唱
 趙州は口を開いて胆を見せ、心肝を露わにした。
 訊ねた僧は、このことの真の意味が解らなければ、釣り鐘を持ってきて甕にするだろう。


 はっきりと明らかであるが故に
 かえって得るのを遅らせてしまう
 灯は火であることにさっさと気づけば
 飯はとっくの昔に炊けていただろうに


注記
 原文では、趙州から、お椀を洗っておけと言われた僧侶は、その後、「省」した、と書かれています。
 省くではなく、省みるという意味で捉えるところでしょう。
「悟りに至った」とする現代語訳も多い印象ですが、私は、そこまでは行かないような印象を受けたので、「気づいた」としました。
 悟りの切欠になるような、小さな、しかし大きな気づき、というイメージです。

 原文では「粥を喫する」という表現がされています。
 昔は、この言葉は普通に使われてたみたいです。
 茶や煙草は喫するもの。
 だからお茶や珈琲を出す店のことは「喫茶店」といいますし、煙草を吸うことを喫煙と言います。
 喫するというのは、「口ですすって飲む」というイメージの言葉です。
 ビールをジョッキであおるようにごくごく飲む、みたいなイメージではないです。
 実際、昭和末期くらいまでは、煙草を吸うことは「煙草をのむ」、喫煙者のことは「煙草のみ」と、誰でも普通に言っていました。
 この公案に登場するお粥は、水をかなり多めに入れて炊いたものだったんでしょうね。

 他にも例えば、こんなフレーズがあります。
 出汁をとることは「出汁をひく」。
 香りを嗅ぐことは「香りを聞く」。
 弁当を食べることは「弁当をつかう」。
 今は表現の仕方も随分変わりましたが、知識としてだけでも知っておいて損はないと思います。

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