無門関第二十七則「不是心佛」
無門関第二十七則「不是心佛」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
南泉和尚は、十四則でネコちゃんを斬り殺した人です。
後進の教育のためになると思えば、平気で禁忌を犯せる、おっかねぇ禅僧です。自分のイメージアップのために出し惜しみするという発想は彼にはありません。「雄弁さは徳を損なう」などと言われたところで、今更そんなことを気にする人ではないでしょう。
教えを請われれば、勿体ぶらずに、どんどん教える。熱血和尚。
彼の熱い指導が、趙州を育て上げたのかも知れません。
で、ある僧から「今まで誰も説かなかったネタって、ないんですか?」とかなんとか訊かれて、南泉、「あるよ」と回答します。
どんなのですか教えてくださいとせがまれて南泉が語ったのが、こんな言葉です。
「心ではない。仏ではない。物ではない」
これ、華厳経の中の「心と仏と及び衆生との是の三に差別無し」という一節と関係があるとする解説が多いようです。
華厳経のこれは、「心であり、仏であり、衆生である」という言い方もできそうな気がしてきます。
だとすると、「心ではない。仏ではない。物ではない」と綺麗な対比になっていそうではあるし、それなりに関係もありそうですが。
華厳経のフレーズのほうは、なんとなくとっつきやすいです。
この世の森羅万象に心があり、仏性がある。それは迷いやすい衆生も勿論例外ではなくて、衆生の中にも心があり仏性がある。それは不可分のものなのだ。まあざっくりそんなようなことなんでしょう。
でも、「あるんなら、見せて」と言われたところで、はいこれだよと見せられるものじゃなさそうです。
確かな形をとる物じゃない。
心ある、仏性ある衆生が、何かを眺めたとき、そこに「ああ、心がここにある」「仏性がある」と見えてくるもの。
心という実体があるわけじゃない。
確かに見えているのに、じっと注視しようとすると消えてなくなる。
だから「ない」。
なんか、そんな絵がありましたよね。交差点に黒丸が見える絵。
つまり「心と仏性と衆生とは常にともにある」というような文句と、「心じゃない。仏性じゃない。物じゃない」というのは、同じものを別の角度から表現しているような気もするのです。
だから、この問答で南泉は、「誰も今まで言わなかった法は、ある」といいながら実は「誰も言わなかった真実なんて、ない」と言ってる、とも言えるんじゃないかと思います。
学生さんが「ねぇねぇ、もっとすごいことが書いてある、誰も持ってない参考書ないの?」と探したとします。
先輩や先生から「あるよ」って言われて貸してもらったとしますね。
でも、どの参考書も、表現に違いはあっても、書いてある内容そのものは、結局同じようなものだったりするでしょ。
それと、ちょっと似てますかね?
だから逆に言うと、それならもう、どのみち同じことを学ぶんなら、好きな道を辿ってかまわんのじゃないかという気もします。
どんな道でも、真剣に追求したら、案外同じような景色を見られるところにたどり着くのかもしれません。
どんな山でも、頂からは、同じ空が見られる、みたいなもので。
イチローや羽生善治が、時折、高僧のような雰囲気を漂わせること、あるでしょう。あの人達、バリバリの勝負師なのに。
でも、素人でもすぐこんなことを感じられるくらい、何でも語る南泉を、無門は「過保護すぎ!」とブツブツ言うのね。
南泉あんた魚の骨とってやるお母さんかよ! みたいな。
お前もぼーっとしてないで自分でやれ! と、ついでに読者にも説教。
自分でやらせないと身につかないだろ! って言うお父さんみたい。
多分、どっちのタイプも必要なんですよね。
南泉タイプの方は、「いいじゃない! みんなに解って欲しいんだよ! みんな何でも訊いて!」と、これからも熱く我が道を突っ走って頂きたい。その後を「まってー」と走ってついていく人も、きっと大勢います。
でも、ネコちゃんはもう殺さないでください。
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