無門関第三十則「即心即佛」

 無門関第三十則「即心即佛」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 仏とはなんぞやと問われて、「それは心である」と答えるしかないのは、なんとなくわかります。
 心は、どう生きるかの原動力となるものですしね。
 我仏たらんとまず自らに定めるもの。

 でも、心というのは、目には見えません。
 なので、心を知ろうとするには、その人の、表情、言葉、行動を見て、そこから推測するしかない。
 転んで泣いてる子供をニコニコ助け起こそうとする女性を見た連れの男が、ああボクの彼女は優しい心の持ち主だなあと思い、彼氏のいないときには泣きわめく子供に舌打ちする姿を見ている娘の友人は、外面のいい子よねぇあの子はなどと思う。
 振る舞い方次第で、その奥の心まで判断されてしまう。これは仕方のないことなのでしょう。

 そうなると、「言動・行動こそが心である」と錯覚する人がでてくるのも、仕方のないことかもしれないです。

 その結果、「まさに仏の心を持つ誰か」が、日々着るもの、食べるもの、話す事柄、その一連の作法、これらが、何か特別なものに見えてしまう。
「あの人は、こうしてた」が、いつの間にか、「あれを真似すれば、あの人のようになれる」にすりかわる。
 さらには「あれを真似してない人は、正しい心が備わってない人である」とすら感じるようになる。

 所謂宗教戒律というのは、こうして生まれるのかもしれませんね。

 竿秤の基準点を示す星の印。
「ここが基準の点」と示すもの。
 印の置かれている場所が肝要なのであって、その印の姿形自体に意味があるわけではなく、星型ではなくても、丸でも四角でも点でも、何でも構わないはずなんですが、もしかしたら「この星の印こそが、よい秤の証」などと勘違いしたりしていないでしょうか?

 例えば履歴書。書いてある中身が重要であるはずなのに、「手書きのほうが心がこもっている」などと言う企業はいまだにあります。
 あるいは、既成品の離乳食を子に与え、離乳食作りに費やされるはずだった時間とエネルギーを、子と楽しく過ごすほうに振り分ける、ということを選択した母親を「手作りしないなんて、母親としてよくない」と断じるとか。
 こういう類いの話は、今も昔もあちこちに数え切れないほど転がっているのでしょう。

「心」などという、はっきりとは目に見えないものを、ことさら引き合いに出して言ってくる人のことは、胡散臭ぇなあと敬遠するくらいで丁度いいし、何やら偉い人の上っ面だけを真似して自分も偉くなったように錯覚している人のことは「バカだなあ」と黙って眺めてりゃいい。
「正しい心がこもってないからダメなんだ」としか言えないというのは、他にきちんとした理由や根拠を提示できないことの表れだという場合も、往々にしてあるわけです。
 そこにちゃんとした根拠は本当はないのか。
 それとも、根拠を説明できないバカしか周りにいないだけで、根拠自体は本当はあるのか。
 そこを判断することが重要なんじゃないでしょうか。

 何でもかんでもただ否定してばかりというのもそれはそれで芸のないことですし、吟味の結果、取り入れたいと思った行動や考え方は素直に取り入れればいいんですけど、少なくとも、上っ面を盲目的に信じずに済む程度には、いろんなものを見通す目も養っておきたいところです。
 そのようなことが、この則には書かれているんじゃないかと、感じます。

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