無門関第四十八則「乾峰一路」
無門関第四十八則「乾峰一路」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
最終則です。
無門関のしめくくりに選ばれたテーマは「悟りに至る道の入り口はどこにあるのか」。
道の入り口。くぐるべき関。
第一則に繋がるようなテーマです。
どんな世界でもそうなんだと思いますけど、道の形は、螺旋のような形かも知れないですね。
全然まだまだだ、基本がなっとらん、と、思えるようになるのが一つの進歩、みたいなこと、あるじゃないですか。
結局最初の初歩に戻ったのかと思いきや、同じ位置でも少しだけ上方にいる。
例えば、創作を生業にする人で、「オレ、すげえ下手!」って言い出すの、上手くなった人に多い印象です。
北斎が「あと20年あれば奥義を究められるだろうに」てなことを言ったのが、70歳のときです。
で、とある僧侶、「悟りの道の入り口は、どこにあるんでしょう?」と、二人の和尚さんに訊ねます。
オレ、悟りの入り口にも立ってない! とか思っちゃったんでしょうか。
真面目な人なんでしょうね。
それに対し、和尚さんたちは、それぞれに答えます。
いろんな答え方があっていいんだと思います。
その方が、その実像に近づきやすくなるかもしれませんし。
ところで。
何かを表すときには、いろんな手法があるんですが、その中に「真理を伝えにくい本当」と「真理を伝えやすい嘘」があると思うんですよ。
これ、どっちも必要だと思うのです。
「真理を伝えやすい本当」なんて、滅多にないからです。
この二人の和尚さんのうち、どっちの答えがどっちなのか、は、あえて書きませんけど、いろんなパターンが必要なんでしょう。
で、この二人の和尚さん、並べてみるとわかるんですが、多分中身は同じようなことを言ってます。
すべては繋がっていて、つまらないとか、大した意味がないとか思うようなものでも、この世界の一端を為している以上、悟りへの道に繋がる入り口となり得る、というようなこと。
ということは、「悟りへの道の入り口」なんて、ないのかもしれません。
入り口がどこかにあるという発想は、それ以外のものは入り口たり得ないという発想から出るものだと思うので。
だから、2人の和尚さんは、悟りへの入り口を、ある意味では知っていると言えるし、ある意味では知らないと言えるんでしょう。
入り口自体が、「ある」とも「ない」とも言えるんだもん。
目指すべき境地。
あるとも言えるし、ないとも言える。
理想的なのは、自分は「私にはない」と思っているのに、周りには「あるよ! あなたのそこに、ある!」と思ってもらえることかなあ。
その逆がいちばんみっともないですね。
結局、その時その時の自分にやれることを、やるしかないんでしょうね。
その道の入り口は、そこかしこに、無数に開いている。
進むもよし。休むもよし。
夢中で進める道を進めば、それでいいんじゃないでしょうか。
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