無門関第十二則「巖喚主人」

 無門関第十二則「巖喚主人」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 瑞巖が、毎日、自問自答のようなことをしている。
 それだけと言えばそれだけの公案なんですが。

 ちょっと興味深いのは、「心を曇らせるな」「他人の言動に惑うな」というような、いわば、禅の根幹に通じる、大切なことを言いつけているにもかかわらず、このとき「ご主人さま」という呼び方をしていることです。
「上の立場から、ありがたい言葉を、授けてやるぞよ」という言い回しではない、ということですね。

 教え導くようなことを言いながら、へりくだる。
 うん、うん、とそれを聞きながら、立場は主人。

 で、これは全部、瑞巖が言っていることです。
 しかし、瑞巖は、多重人格者ではありません。
 では何故こんなことをするのか。

 無門は、「聻」と記しました。
 聻というのは、通常、特に意味のない、文の調子をとるような語であるとされることも多いらしく、そのせいか、現代語訳では大抵無視されてます。
 しかし「聻」には、「鬼が死んだ後になるもの」という意味もあります。
 中国でいうところの「鬼」は、人が死んだ後、なるものです。

 人が死んだら鬼になる。鬼が死んだら聻になる。
 凡人が知ったら聖人になる。聖人が会得したら凡人のような人になる。
 つまり、無門は、瑞巖を、「悟った後、会得をした人」であり、そこに、瑞巖の行動の理由がある、と、小声でぼそっと告げているわけです。


 人は、他人のことはよく見えますが、自分のことはあまり見えません。
 十一則で、趙州は、ある庵主を「底が浅い」と感じ、ある庵主を「すばらしい禅の体現者だ」と感じました。
 この趙州のような立場に置かれ、同じように感じる状況を体験したら、人は、即座に自分のゆらぎを疑えるでしょうか。
「そう感じる自分に、通常の自分と違う変化は起っていないだろうか?」と、本気で自分を検証できるかどうか。
 多くの凡人には、なかなか難しいことです。

 で、悟りに至った人が自分を見たら、自分の有り様を見抜いてくれます。
 曹山が、清税の有り様を見抜いたように。

 逆に、凡人は、知った聖人のことは見抜けますが、会得した聖人のことは、なかなか見抜けません。
 会得した聖人は、一見、凡人やバカのように見えることがあるからです。

 瑞巖は、多分、知った後、会得しています。
 しかし、会得した後も、人は、程度の差こそあれ、ゆらぎは続きます。
 本質は特定の姿に固定化されるものではないからです。

 知った程度の境地では、自分に対してなかなかこうは思えません。
「私は悟りに至ったんだから、私はきっと正しくあり続けることが出来る」と、おそらく思ってしまいます。
 偉くなると、人は、忠告を聞き入れることが難しくなるでしょう?
 瑞巖は、会得したので、自分にも揺らぎは起ることを理解しています。
 しかし、会得した人のことを、見抜ける人は、限られます。

 だから、瑞巖は、きっと、自分で自分を見抜こうとし続けたのです。

 ところで、瑞巖は、会得するに至った人です。
 なので「曇りのない境地」を「目指している」わけではありません。

 だから、多分自分に「曇らせるな」というとき、自分を「ご主人」と呼ぶのです。
 瑞巖の中に「ダメな自分」と「理想の仏」が居て、そのため、「今の自分がダメ」だから「いまだ到達し得ない境地の、尊い存在から、教え諭してもらっている」、というわけではないからです。
「ちょっとぶれてんじゃないの?」くらいの感じです。


 しかし、これを、凡人が真似したら、全然中身が違うものになります。
 凡人は、悟りの境地には至っていません。
 なので「心を曇らせるなよ」と自問したら、それはそのまま、自分を教え諭す、内なる神の戒めの言葉となります。
 そして、「いまだ悟りに至らないダメな自分」が「理想の神」から、ずっと責められ続けることになります。
 それは、とても苦しい日々だと思うのです。
 五百回も野狐に転生した僧が、「解脱した理想の自分」を追い求め続けて、現在の野狐としての自分を責め続け、苦しみ続けたように。

 これは、瑞巖の自問自答と、形は同じでも、中身は異質のものなのです。

 凡人が知る「内なる神」は非常に強固です。
 この内なる神は、常に完璧な、理想の姿を示し続けます。
 それを目指し続けることが、すべて無意味なこととは、私は言いません。
「道を学ぶ者は真理を識らない」というのは、学究や修行を否定しているわけではないと私は思っています。

 しかし、それにこだわりすぎると、手段が目的になってしまいかねない。
「戒律を守ることで真理に至る」のを目指していたはずが、「戒律を守ること」を目指すことになりかねません。
 それは、本来の目的ではありません。
 だから、「凡人は真似をしてはいけない」と書かれているのです。
「決して真似をしないでください」「専門家の監修の元で行われています」は、こんな大昔からあったんですね。

 長い時間をかけて、成功も失敗も繰り返し、様々な浮き沈みも経験し、そのなかで、知り、会得する。
 そして「内なる神」が主人の座から降り、「ときどき助言をくれる爺や」くらいになったとき、自分は、仏性を体現した、本来の自分になれる。
 この公案には、そういうことが書かれているのだろうと、思います。

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