無門関第三十三則「非心非佛」
無門関第三十三則「非心非佛」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
「仏とはどんなものですか」
何度も何度も繰り返されてきた問いです。
そんなこと訊いてどうすんの、とすら思うこともあるんですけどね。
いろんな和尚さんが、いろんな答え方をしてきました。
最も馴染みのある答えは、「心こそが仏である」でしょうか。
どこでだったか、前にも書いた覚えがあるんですけど、「森羅万象には心があり、仏性がある」みたいなこと。
「心ではない、仏ではない、物ではない」というのも結局はここに通ずる、とか。
でも、こう教わると多分今度は、「じゃあ心って何?」ってなっちゃうんでしょうね。
心は目に見えるものじゃないし、決まった形もありませんから、これに囚われると面倒なことになるかもしれません。
見えないものを、探そう探そうとしてしまう。
きっとここにも心はある、仏性はあると、見えないまま信じて、というか、信じようとして、対応するということになるかもしれない。
二則の野狐みたいに、くたくたになっちゃうかも知れないわけですよね。
それも修行だと納得できればいいのかもしれませんけど。
だからなのかどうなのか解りませんけど、馬祖は言いました。
「非心非仏」。
これ、私は、こういう意味なんじゃないかと思ったのです。
「心がないと思ったものは、仏じゃないと思ってりゃいいんじゃない?」
これ、よくよく考えれば、「森羅万象に心あり、心すなわち仏である」と、似たようなことを言ってるんだと思うんですよ。
でも、意味は似てても、言われた側の心持ちは、かなり違ってくるような気がするんですよね。
「心すなわち仏である」とだけ思ってる場合は、剣をぶん回してきた相手に対しても「話せばきっと解ってくれるはずなんだ。彼の奥にも仏性は眠っているんだから」と信じて、何が何でも非暴力で対応しなければならないという心理的束縛が生じる恐れがあります(確固たる信念があっての行動なら、それもひとつの生き方でしょうけど)。
しかし「心なきものは仏じゃないと思っていい」とも思っている場合は、剣には剣で対応できるようになるかもしれない。
その方が被害は少なく済む場合もあるわけですね。
仏は誰の中にも眠っているのでしょう。
しかし、それは、はっきりと表に出てくることもあれば、なかなか出てこないこともあります。
その形は、ひとつではありません。無数にあるのです。
ならば、「仏とはかくあるもの」というひとつの形にこだわるより、無数の心の在り方に対して、その都度最適な形で対応するほうが、比較的苦しまずに済みそうです。
剣には剣を。詩には詩を。
何を出すか、都度、見極める。
そのためには、最初からフルスロットルでさらけ出す必要はなく、まずは相手に合わせて小出しにするくらいでも丁度良い。
相手を大切にしながら、自分も大切に守る。
それでも、解る人はちゃんと解って、それなりに反応してくれる。
お釈迦様に謝意を述べた異教徒のように。
「臨機応変」。
これこそが、禅の極意のひとつなのではないか。
私は、今のところ、そう感じています。
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