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枝豆

 休日を共に過ごしたその日暮れ、男と女は、適当に目についた、小綺麗な居酒屋に入ることにした。

 男は、テーブル席を希望した。
 そこまで混んでいなかったのか、個室の四人席に通された。
 二人は腰を下ろし、昼間歩いて疲れた足を休めた。
「酒はどのくらい飲めるの? ビールは飲める?」と男が女に訊いた。
「そんなに強くはないけど、全然飲めないわけじゃないですよ」
 大学入学以降、あちこちで訊かれ続け、もう訊かれることも少なくなった問いに、今まで答えていた通りの答えを、女はそのまま口にした。

 男は眺めていたメニュー表から顔をあげ、冷水とおしぼりを持ってきた店員に「ビールを二つ。それから枝豆を一つください。他はもうしばらく後に頼みますから」と注文をした。
 若い店員が、おぼつかない敬語で復唱して帰って行った。

「何か食べたいものはある?」
「私、居酒屋には、あまり来ないから、すぐにはちょっと…」
「そうなのか。こういうとこで飲み会なんかもあるんじゃないのか? まあいいや。こっちで適当に選ぶから、何か食べたいものがあったらいつでも言って」
 さっきの店員が、ビールと枝豆を、手際よく並べていった。

 夏の盛りだった。冷房の効いた部屋でも、冷えたビールは美味と見えて、男は一気にジョッキの半分を空けた。
「ジョッキは、重いのが嫌なんだけど、こういうところで、瓶で手酌もな」
 男は酒が強かった。
 男は残り半分を今度はゆっくり空けながら、店員を呼び、自分の分だけジョッキの追加を注文した。

「ビールにはやっぱり、枝豆だろ?」
 男は朗らかにそう言いながら、ぷちぷちと、食べていく。
「○○さんも、食べたら? 一緒に食べるために一皿頼んだんだから」
 枝豆の皿を女の方に軽く押しやりながら、男はまだこの頃、女をそんなふうに呼んだ。
「じゃあ、いただきます」
 女は枝豆の皿に手を伸ばした。

 女も枝豆くらいは何度も食べている。
 しかしこのとき、なかなかその実は、莢から出てこなかった。

「あれ、おかしいな、出てこない」
「ん? そうか?」
「すみません。これ、皿に戻して、違うの、取っても良いですか?」
「いいよ」

「どうして出ないんだろう。うーん、あ」
 莢から飛び出した枝豆が、床に落ちた。

「何やってるんだよ」
「この枝豆、生きてますよ」
 使い古された冗句に、二人して笑った。

「さっき皿に戻してたやつ、ちゃんと出てきたぞ」
「そうですか? そんなはずないんですけど。あーこれも出ない」
「そうか? 貸してみろ」
 女が口に当て四苦八苦している莢を、男がすっと取り上げ口にした。

 それをあっさりと食べ、男が言う。
「枝豆のせいじゃ、ないと思うんだが?」
「そんなはずないですよ。ここの枝豆が根性悪なんですよ」
 少しずつ酒が廻り始める。
 男も女も、この頃には、ほぐれたのか、よく笑うようになっていた。

「そんなことでかい声で言うな。まさかとは思うけどこれ、今まで食べたことない?」
「ありますよ枝豆くらい! 好物なのに…」
「もう酔った? 食べ方忘れた? ほらこうやって食べるんだよ?」
「ああそうやってまた一人だけ! 私もさっきからそうしてるのに」
「いや何か違う…。どうすりゃ食えるんだ。こういうのは、皿に出して食べたってなぁ。枝豆は莢から食ってこそだろ」
「あ、その手があった」

 小皿に出す方が難しいだろとブツブツ言いながら、男が数粒皿に出す。
 女は、小皿に出してもらった枝豆の粒を箸で摘まもうとする。
 再び枝豆が床に落ちる。

「なんで私だけ食べられないの!」
「生きてるからだろ?」
「そうですよそうに決まってますよ。枝豆のくせに生意気なんですよ」
「だから、声がでかい。これなんか、出しやすいんじゃないか?」
「そうですかね…。あ、また落っこった! もう! なんで!」
「何でそうなるんだろうなあ。もう一皿頼んでみるか? 次は素直な枝豆が出て来るかもしれん」
「何皿頼んでも一緒ですよ! この店の枝豆みんな、私に食べられるの、嫌がってるんですから…床に逃げたほうがましとか…私食べ散らかして子供みたいじゃないですか…もうわかんない…」
 ぶつぶつと呟きながら真剣に皿を見つめる女に、男が吹き出した。

「酒が入ったら、いつもそんなに面白いことになるのか? たまたま今日だけか? 昼間と全然違うなあ」
 一笑いした後、男は、持っていたジョッキをテーブルに置いた。
「貸せ」
 男が、枝豆の皿ごと手元に引き寄せた。

 男は皿から、無造作に莢をひとつとり、その手を正面に伸ばして、男の意図が飲み込めず男の動きを見ていた女の、唇に莢を当てた。
「ほら」
 莢を押し込んでくる。女の唇がわずかに開いた。
「今度は落とすなよ」
 つるりとした粒がひとつずつ、女の舌の上に滑り込んだ。
 男は、女の口と喉が動くのをじっと見ながら、黙って数莢、女の口に当て続けた。

「あの、もう」
「もういいのか? よかったな。食べられて」
「はい」
「ほんとにもう要らない? 好物なんだろ?」
「いえ、もう」
「じゃあ何か他の物も頼もうか。私ひとりなら酒があれば充分だけど、これだけじゃお腹すくだろ?」
「はい」

 店を出て、タクシーを探しながら、男は言った。
「○○さん。男とは酒飲まないようにした方がいいよ」
「どうしてですか」
「どうしてだろうね。いいから、そうしときなさい。また連絡する」

 遠い夏の一夜の出来事。


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